年別アーカイブ:2019年
スリランカ スリーパーダへ
お茶の新芽が、こんもりとした丘を鮮やかな色で覆っていた。 なだらかな稜線をやさしく撫でるように、おもちゃのような汽車に揺られてゆく。 列車は窓もドアも開けっ放しだった。若者たちが戸から外にぶら下がり、はしゃいでいる。 向かい合った席の男の子は窓に箱乗りしていた。男の子の横に座るおばあちゃんは、孫が窓から落ちないようにシャツの端を握りしめている。 時折、私と目が合うと、おばあちゃんは「何だか困っちゃったな」という顔をしたが、本当はとてもうれしそうだった。 この列車に乗っている誰もが、みんなわくわ ...
スリランカ ダンブッラへ
私は、ダンブッラ行きのハイウェイバスに乗っていた。 ハイウェイバスとは名ばかりで、12人が乗り込んだ8人乗りのバンは公道ばかり走っていた。 スリランカにはハイウェイ(高速道路)が無いので、おかしいとは思っていたのだ。 ハイウェイバスは、公道を高速道路なみのスピードで暴走していた。 バスは国営だが運転マナーは他のどの車よりも悪い。 早朝の道路には、動物たちの死骸が数メートルごとに転がっていた。 ハイウェイバスは異常な速度で何の躊躇もなく生き物たちをはね飛ばしていく。 死骸から大袈裟なくらい腸 ...
ネパール ポカラからカトマンドゥへ
眼下には、雪をかぶったヒマラヤの山々がそびえていた。 雨期のポカラは灰色の雲に覆われ、ヒマラヤの山々が姿を見せてくれることはなかったが、雲の上に行けば、雨期だろうと関係なかった。 太古の昔から雪を被り続けている山々が、犯しがたい崇高さをもって、そこにそびえたっていた。 峻厳な山岳に降り積もった粉雪が、風に吹き飛ばされていくのが見える。 圧倒的な威容。 厳しいまでの美しさ。 私は、思わず手を合わせていた。 この神々しい山々が、どの神仏の垂迹であるかは、問題にならない。 山々は、絶対的真理の ...
ネパール ポカラへ
山々に囲まれた谷間の斜面に削り出された道路上で、バスは長い間、停まったままだった。 車内ではイスラエル人たちが、いつ走り出すのかと騒ぎ続けている。 一時間ほど待たされた後、乗客は全員、降ろされた。 預けていた自分の荷物を渡され、「歩け」とだけ言われた。 斜面に沿って湾曲した道路に、ポカラへ向かうバスが十数台連なっていた。 私は重い荷物を背負って、連なるバスの傍を歩いて行く。 日射しが強かったが遮るものが何もなかった。 長い間、上り坂が続く。 途中で座り込んでいる者もいる。 強力な太陽光 ...
ネパール ダクシンカリにて
その日は、谷底に祀られている女神に、生け贄が捧げられる日だった。 神の前にいる聖職者は、実に手際よく、生け贄をさばいていく。 施主から鶏を受け取ると同時に、頭をひねり首をねじ切る。頭を祠の上に投げ置き、胴体から噴き出す血を神像にかける。 胴体を施主に手渡すと、すぐに次の鶏を受け取る。 十畳ほどの白いタイル張りの床に、赤い血が染みわたってゆく。 おびえる子山羊が、首に紐をくくられ引きずられてきた。 鶏が殺されてゆく横で、山羊は床に押さえつけられ、鉈で首を叩き落とされた。 私は座って、動物たち ...
ネパール カトマンドゥにて2
カトマンドゥは喧噪と汚濁に満ち、いくつもの深刻な問題を抱えていた。 大気汚染もその一つだ。 カトマンドゥを走る車のほとんどが、インドから仕入れた中古車である。 インド国内を走る車もひどいが、さらにその中古である。そのうえネパールで売られているガソリンは不純物が多く、インドよりも格段に質が劣る。 そのため車の管がすぐに腐ってしまうので、ガソリンを垂れ流しながら走っている車も多い。 日本では、間違いなく廃車扱いになるような車がほとんどだ。 街に出るとき、私はいつもマスクをしていた。マスクをしない ...
ネパール スンダリジャルにて 5
しとしと、という音の中で、目が覚めた。 雨の臭いがする。 目を開いても、闇の中にいることに変わりはなかった。 「夢」の修行をしているときは一晩で十回以上、夢を見る。夢が途切れるたびに目が覚めるので、行中は慢性的な寝不足である。 つい先ほど見ていた夢を辿っていく。 夢の中の風景を忠実に再現していく。 青い海と白い砂浜。 椰子の木陰。 小さな仏像。経典。数珠。 夢の中の私自身。 私は、夢の中でも昼間行っていた瞑想を行じていた。 違うのは、カビ臭いコンクリートの部屋か、南の島の白い砂浜かと ...
ネパール スンダリジャルにて 4
蜂が巣を作り始めた。 部屋の窓は開き窓になっており、木窓は外側に、網戸は内側に開くようになっていた。 その間に鉄格子があり、そこに蜂たちが巣を作っているのだった。 蜂の身体は細く、尻がとがっていた。 刺されると妙に痛かった。 蜂は本能により、私を刺した。 本能だから、仕方がなかったのだ。 巣は、日増しに大きくなっていく。 蜂の数が増え、度々、部屋の中に迷い込んできたが、蜂は攻撃的ではなかった。 壁にとまっている間にコップを被し、紙でふたをして外で放してやると、素直に巣に戻っていった。 ...
ネパール スンダリジャルにて 3
毎年、ホーリーの日が来ると、絞り出すような泣き声を聞く。 私は立ち上がり、屋上へ歩き出した。 ホーリーはヒンドゥー教の祭りで、この日は何をしても悪業を積まないのだとされている。だから、みんな滅茶苦茶するのだ。 太古の昔、神が定めたとされる身分制度が、ヒンドゥー教文化圏では現代でも、人々に対して強い拘束力を持ち続けている。 ホーリーの日、低カーストの者たちは日頃の鬱憤を晴らすべく、普段できないような大胆な行動に出る。 インドでは、高カーストや外国人に対し、殺人を犯す者も出るという。 しかし、こ ...
ネパール スンダリジャルにて 2
戸口に立つと、血の臭いがした。 扉を開くと、戸口を塞ぐように、血まみれの自動車が停めてあった。つい先ほど人間をひき殺してきたかのような凄惨な状態だ。 向かいの家の前で、男が山羊を押さえつけている。 子供たちが見守る中、斧が振り下ろされる。 切れ味の悪い斧は、山羊の首の半分あたりまでくい込んだだけだった。 山羊は血を吹き出しながら、何とも悲痛なうめき声をしぼりあげている。 それを見て無邪気にはしゃいでいる子どもたち。 男は首が落ちるまで、何度も斧を振り下ろし、その度に、山羊は眼球を剥き出し、 ...
ネパール スンダリジャルにて 1
その日はなぜか騒がしかった。もしかしたら、何か意味のある日だったのかもしれない。 はす向かいの大家の部屋に、ネパール人が何人も集まって熱心に話し合っていた。 話し声は、私の部屋の中にまで響き渡った。 そんなことは滅多にあることではなかった。 腕の上下運動で、灯油コンロに空気を送り込む。ピストンの革製部品がすり減ってしまっているので、タンク内の圧力がなかなか上がらない。 バルブを開く。 一瞬の間をおいて、灯油が噴き出した。 マッチをすって灯油の受け皿に入れる。火が吹き上がり、部屋はすすと油煙 ...
タイ パンガン島にて 3
ちくちくという痛みで、目が覚めた。 椰子の間から、真夏の太陽がひどく擦りむけた足を照りつけていた。 強い鎮痛剤で朦朧としたまま、しばらく傷を眺めていた。 すると、午前中の出来事が、うっすらと思い起こされてきた。 私たちは、パンガン島の砂だらけの道をバイクで走っていた。 砂でハンドルを取られるたびに、後ろに乗っている友人は豪快に笑いとばしていた。 カーブのたびにスリップしたが、「マイペンライ(大丈夫)」を連呼する友人の勢いにおされ、そのまま運転を続けてしまった。 下り坂にさしかかったとき、ハ ...
タイ ピサヌロークにて
私は髪の毛だけではなく、眉毛も剃り落としていた。 タイの僧侶は皆そうなのだ。 ミヤンマーと戦争を繰り返していた昔、信仰心厚い両国に、たびたび僧形のスパイが送り込まれてきた。 タイやミヤンマーなどの上座部仏教の国では、日本では考えられないほど僧が敬われている。 僧に失礼があってはならないと誰もが思っているから、僧形のスパイを見つけ出すのは困難なのだ。 敵国のスパイと区別するために、タイの僧侶は眉毛も剃ることになった。 眉剃りは、そのとき以来の伝統だという。 私は毎朝6時になると、先輩僧たちの ...
タイ パンガン島にて 2
その日、私は完全な調和の中にあった。 私は全体であり、全体の中で歩いていた。 海沿いの強烈日射しが、焼けたアスファルトにくっきりと私の輪郭を照らし出している。 海面の小さな波の一つ一つが銀色に輝き、瞬間毎に生滅を繰り返していた。 それがずーっと、水平線まで続いている。 その上に広がる大空は、水色だ。 タイ語で「空色(シーファー)」といえば、それは「水色」のことである。 タイで真っ青な空というのは見たことがない。タイの空はいつも水色なのだ。 だだっ広い空を眺めながら、通りを歩いていく。 ...
タイ アユタヤにて
遠くでカエルが、大声で鳴いている。 耳元では蚊がうなっている。 私は、蒸し暑い蚊帳の中から這い出た。 友人は別の蚊帳の中でいびきをたてている。 この友人が田んぼの真ん中にあるこの実家へと招いてくれたのだった。 数十匹の蚊が私に吸いついている。 インディアンの拷問に、一晩、森の木に縛り付けておく、というものがあるそうだ。全身を蚊に吸われ、翌朝にはゴムまりのようになって死んでいるのだという。 蚊帳がなければ私たちはまちがなくゴムまりになるだろう。 蚊の数が尋常ではないのでどうしても蚊帳の中に ...
タイ パンガン島にて 1
あたたかい遠浅の海は、どこまで歩いて行っても、ひざより深くならず、やわらかい藻が足にからみついた。 「だから、人が来ないんだよ」 バンガローを経営しているおばさんが、砂浜から言った。 人が来なくて波の音がしない海は、瞑想修行に良い。 パンガン島はヒッピーの島として有名だが、ヒッピーは波が高く、パーティーが行われる東のビーチに集まる。 浅く波が無く、泳ぐことができない西の宿には、ゆっくり読書するような年配の欧米人しか来なかった。 「ここは何も無いけど、ゆっくりするにはいい所だよ」 椰子の木が茂る ...
タイ バンコクにて
バスは、長い間、停まっていた。 南国の夜のなまぬるい空気が、開け放された窓からぬるりと侵入し、肌にまとわりつく。 乗客がまばらなバスの中にはタイの演歌が控えめな音で流れていた。 テープに合わせて陽気な運転手が、体をくねらせながら歌っている。 バスがゆっくりと走り出しては、また止まった。 乗務員のおばさんは眠そうな目をこすりながら窓から首を出した。 「事故だね」 運転手が、演歌のメロディーにのせて「知ってるよ」と答えた。 突然、後ろから、青いサイレンが猛スピードで追い越して ...
タイ スコータイ マハタート寺にて
その空間は微細な美に包まれていた。
太陽は圧倒的に光り輝き、蓮池に浮かぶ寺院は、そのままの姿を水面に落としていた。
蓮が乱れ咲く水面を境に、世界が上下に同じだけの広がりを持っている。
あめんぼが創り出す水紋が、世界はぶよぶよとした幻影であることを伝えていた。
タイ北部・スコータイにあるマハタート寺。