その空間は微細な美に包まれていた。
太陽は圧倒的に光り輝き、蓮池に浮かぶ寺院は、そのままの姿を水面に落としていた。
蓮が乱れ咲く水面を境に、世界が上下に同じだけの広がりを持っている。
あめんぼが創り出す水紋が、世界はぶよぶよとした幻影であることを伝えていた。
タイ北部・スコータイにあるマハタート寺。
スコータイ様式の建築は床と柱は石やレンガでつくるが、壁と屋根は木造なので、長い間、風雨にさらされることで、屋根と壁はきれいに無くなってしまったのだ。
床の上に柱だけが何本もならんでおり、一番奥に石像の釈迦如来が微笑んでおられる。
草履を脱ぎ、煉瓦の床に足を触れる。降り注ぐ太陽は、火傷するほどにレンガでできた床を熱していた。
仏前に向かって、一歩一歩、そびえ立つ柱の間を通り過ぎて行く。
寺院の内側と外の空間を遮るものは何もない。壁も天井もなく、ただ柱だけが仏の前へと続いていた。
石の釈迦如来は、日の光を浴びて、太陽と同じくらい燦として輝いていた。
雲一つ無い大空のすべてが、釈迦如来の光背だ。
圧倒的な光に向かって礼拝し、蓮華座を組んだ。
焼けた床は、私を熱で包んだ。
目を閉じても暗闇は訪れなかった。
如来は、黙されていた。
黙すことにより、すべてを語られていた。
語れることと、語り得ないことまでをも、微動だにしない微笑の中で、すべてを語り尽くされていた。
言語は、それ自体が観念である。
自と他が未だ分離していない一切の本質。
それ自身は名を持たない。
それを言葉で表すことは、どんな言語表現によっても、必ず失敗する。
それは、いかなる名も持たない。
名を持った途端に、それは本質ではなくなる。
名前を付けられることは、観念付けられることである。
他との差異を見い出され、名付けられることでそれは本質ではなくなってしまう。
それは、いかなる名も持たないが故に、いろんな名前で呼ばれるのだ。
そこからは、いつも、言葉を超えた教えが流れ出してくる。