ネパール スンダリジャルにて 3

Nepal

 毎年、ホーリーの日が来ると、絞り出すような泣き声を聞く。

 私は立ち上がり、屋上へ歩き出した。

 ホーリーはヒンドゥー教の祭りで、この日は何をしても悪業を積まないのだとされている。だから、みんな滅茶苦茶するのだ。

 太古の昔、神が定めたとされる身分制度が、ヒンドゥー教文化圏では現代でも、人々に対して強い拘束力を持ち続けている。

 ホーリーの日、低カーストの者たちは日頃の鬱憤を晴らすべく、普段できないような大胆な行動に出る。

 インドでは、高カーストや外国人に対し、殺人を犯す者も出るという。

 しかし、この小さな村では、それほど大胆な行動に出るものはいなかった。

 顔見知りばかりの共同体の中で、憂さ晴らしのために犠牲にされるのは、いつも弱者である。

 私は、屋上から道をのぞき込んだ。

 私が住んでいた建物のはす向かいに、トタン屋根の小さな小屋がある。

 それは鍛冶屋の工場であり、住居でもあった。

 鍛冶屋はヒンドゥー社会では低いカーストに属する。小屋の前で、真っ黒になって泣いているのは、全身コールタールまみれの鍛冶職人だ。

 彼は毎年、殴られ、蹴られ、頭から熱せられ液状化したコールタールをかけられる。

 そして毎年、真っ黒になって絞り出すような悲しい泣き声を村中に響かせるのだ。

 悔しさと、憎悪と、やりきれなさに満ちた泣き声は、毎年、私をやるせない気持ちにさせた。

 神が真実であるならば、この祭りが神が定めた祭りではありえない。

 この祭りを定めたのは凡夫の思考だ。

 思考が差別を定め、ストレスと侮蔑と悔しさと、憎悪と、やりきれなさを生み出した。

 思考が消え去り、次の思考が生じるまでの空隙に集中し、それを広げていくべきだ。

 湧き上がってくる思考が、自ずから解脱し、智慧の光明として解き放たれるとき、そこには慈悲がある。

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