お茶の新芽が、こんもりとした丘を鮮やかな色で覆っていた。
なだらかな稜線をやさしく撫でるように、おもちゃのような汽車に揺られてゆく。
列車は窓もドアも開けっ放しだった。若者たちが戸から外にぶら下がり、はしゃいでいる。
向かい合った席の男の子は窓に箱乗りしていた。男の子の横に座るおばあちゃんは、孫が窓から落ちないようにシャツの端を握りしめている。
時折、私と目が合うと、おばあちゃんは「何だか困っちゃったな」という顔をしたが、本当はとてもうれしそうだった。
この列車に乗っている誰もが、みんなわくわくしていた。
おとぎ話の光景のようなやさしい丘をいくつも越え、美しい茶葉の間を通り抜けていく。
歓声が上がった。
男の子がひっくりかえりそうになると、同時におばあちゃんがシャツを強く引っ張った。
歓声は男の子に対してではなかった。なだらかな丘の向こうに、不自然な形の山が現れたのだ。
おばあちゃんは男の子に何か言っていたが、男の子は窓の外に釘付けだった。
なだらかな丘が連続する地形の中で、その山だけが、ぽっこり、と突き出ている。
人為的な印象を受けるほど不自然な形の山に誰もが釘付けになっていた。
おばあちゃんは山に手を合わせた。
聖山スリーパーダ、楞伽経が説かれた楞伽山である。
スリーパーダ(聖なる足跡)という名の通り、あの山の頂上には仏足跡がある。
釈迦如来がスリランカに訪れたとき、残されたものだ。
ところが、スリーパーダはスリランカ周辺のすべての人々にとっての聖地なので、頂上の足跡が誰のものかについては、それぞれの宗教でちがうことを主張している。
ヒンドゥー教徒はシヴァ神の足跡だという。
イスラム教徒は、アダムが楽園を追われ地上に降りたときのものとか、この地で千年間、片足立ちをしていたアダムのものだという。
キリスト教徒は聖トーマスのものだとか、アダムのものだという。スリーパーダの別名がアダムス・ピークというのはそのためだ。
また密教では、マハーヨーガ乗が人間界に出現したのは、この山の頂に天からマハーヨーガ乗の経典が降りてきたのが最初であるといわれる。
いずれにしても、スリーパーダが大聖地であることに変わりはない。
汽車が汽笛を鳴らした。
窓から顔を出すと小さな駅が見えた。
みんなそわそわして落ち着きがない。
汽車が止まると、誰もがわくわくを抑えきれずに、列車からとび出して行った。