バリの田は、今まで見たどこの田よりも美しかった。
なだらかな起伏に段々に設けられた田のところどころに椰子が生えている。
機械で植えられた日本の田のように均一な平面ではなく、表面に微妙なやわらかさがある。
同じ手植えでも、ネパールの田とも違う。ネパールの田は人々の必死さがこもっている。お気楽さがないのだ。
私は、お気楽な田んぼの明るいあぜ道を歩いていた。
虫たちを踏まないように、すり足で進んでいく。
一歩進むたびに、さーっ、と、バッタが左右に跳び出していく。
あぜ道を抜け出して、舗装された道路に出たとき、御輿を担いだ大きな行列に出会した。
何人もの男が担いでいる巨大な御輿は、高さが四メートルくらいもあり、一番上には棺桶が乗っていた。
葬式だ。
私は、行列について行った。
楽器やドラを鳴らしている人もいて、とてもにぎやかな葬列だ。
行列はすぐに広場に入っていった。
広場に入った途端、御輿はかけ声と共に、右に三回転させられた。
右転は、復活の方向である。
バリ・ヒンドゥーでは、現代は、不浄な時代であるから解脱は不可能であるとしている。
解脱が不可能な以上、死者は一刻も早く不快な中有を抜け、転生してくるように祈られる。
バリ土着の死生観は、日本土着の死生観と驚くほど似ている。
バリでは、死人の魂は、家の敷地内にある鳥小屋のような箱に宿る、と考えられている。
善業の潜勢力が強い者は、早く転生してくるが、悪業の潜勢力が強い者は、何年でもそこに留まることになる。
しかも、転生先は必ず、子孫の子宮であるとされているのである。
死人の魂が宿る箱を「山」か「黄泉」に読み替えれば、日本土着の死生観とまったく同じである。また、あの箱は位牌のようなものである。
インド的輪廻思想の受け入れについても、日本の場合とよく似ている。
仏教やヒンドゥー教では、転生先は親族に限らないだけでなく、犬や虫に転生する可能性もあると考えられている。
母性的宗教である仏教、ヒンドゥー教は、インドから諸外国への伝播に従い、その土地土着の宗教を排斥することなく、丸ごと飲み込んできた。飲み込んで消化し、そして時には消化不良のまま、矛盾を矛盾としたまま共存した。
日本の場合は、一方が他方を吸収したのではなく、神道と仏教はほとんど同等に習合したため、大きな矛盾が残った。
その矛盾を、日本人も、バリ人も、矛盾のままに受け入れている。
日本人が、そのことに対して不自由を感じていないように、私が出会ったバリの人たちも、深く考えてはいなかった。
棺桶が、白い牛のはりぼての胎内に入れられ、火が放たれた。
白牛は激しく燃える。
私は歩き出した。
世界一美しい田のあぜ道に入っていく。
女性や年寄りたちの小さな泣き声が、虫たちの鳴き声と共に、耳に響いていた。