夜明け前、ボルブドゥールの石段を登った。
この遺跡は世界三大仏教遺跡の中で、唯一の密教遺跡だ。
回廊をまわり、少しずつ上に登って行く。
回廊には、釈迦如来の生涯と華厳経の入法界品に説かれている善財童子の物語が浮き彫りにされている。
善哉童子は、仏陀に成るために旅に出た。旅先で出会う偉大なる菩薩たちから、教えを授けていただき、童子は修行を続けた。
修行の最終地に教え導かれた時、童子は、自分の外側にばかり仏性を求め、旅を続けていたが、自分の内側に仏性があることを悟った。
巡礼者は回廊を巡り、少しずつ上に上がっていくことで、善財童子の修行道を追体験する。
やがて、善財童子の修行が完成するとき、巡礼者は金剛界曼荼羅に入る。
遺跡の上層部は立体曼荼羅になっているのだ。
曼荼羅には「本質を持つもの」という意味があり、仏陀の悟りの世界を表現したものであるといわれる。
しかし、実際に、仏陀の境地を体験したならば、図像としての曼荼羅は悟りそのものではないことを知る。
その境地において、曼荼羅のような幾何学模様の顕現は生じえないからだ。
曼荼羅のような色彩豊かな幾何学模様が意識野に映じるのは、悟りにいたる前の段階、深層意識の基底をなす阿羅耶識の段階においてである。
密教行者は、曼荼羅を観想することにより、曼荼羅を観想している表層意識と、曼荼羅的幾何学模様を内蔵している阿羅耶識とを限りなく同質に近づけていく。
つまり、曼荼羅は阿羅耶識まで降りていくための瞑想装置なのだ。
表層意識と阿羅耶識の質が限りなく近づいてゆき、ついには同質に到った時、堰を切ったように、一気に鮮やかな阿羅耶識の体験が始まる。
阿羅耶識に内蔵されていたものが意識上に、怒濤の如く噴き出してくる。
ある程度、心の連続体の浄化が成功している行者は、意味不明な映像や、見たこともない世界、曼荼羅の顕現に出会う。
ここで顕現する曼荼羅は、躍動的に運動する色鮮やかな幾何学模様である。この体験は、曼荼羅が本来、静止画ではなく、力強い運動体なのだということを行者に思い起こさせる。
心の連続体が浄化されてない行者は、ここで地獄を体験する。
とうに忘れていた悪業。死ぬほど恥ずかしい記憶。正気を保つために無意識のうちに葬り去られた記憶の数々が、不浄な者の意識上に、生々しくよみがえる。
それは、思い出すというような、なまやさしいものではない。行者は、現に体験するのである。
内的な障碍の状態にあるときはまだいい。これが実際に現象化し、外的な障碍となったとき、実生活が凄まじい生き地獄となる。
これは実際に体験した者にしか信じられないだろう。
しかるべき導師につかず、瞑想や座禅を続けた者の中には、この段階で意識障害に陥ったり、自殺する者がいる。
特に、究竟次第系の高度な瞑想を行じる者は、必ずしかるべき阿闍梨に師事し、指導を請うべきである。それが何よりも、行者自身のためである。
曼荼羅の体験は鮮やかな顕現であり、行者にある種の達成感を与えるが、この階梯に執着してはいけない。
この境地にある行者は、未だ輪廻世界に縛られたままだからだ。
完全な覚醒は、この意識の根底である阿羅耶識を突き破った向こう側にある。
そこでは、曼荼羅が幾何学模様としては顕現しない。
宇宙全体が、無色透明にして多様な色彩を持つ、寂静にして躍動的な曼荼羅、「本質そのもの」として、鮮やかに顕現するのである。