普段、三千人しかいない村にダライラマ法王からカーラチャクラの灌頂を受けるために世界中から三万人が集まった。
この時のカーラチャクラの大灌頂は、もっとも歴史のある転生活仏であるカルマパと、ニンマ派の法王ペノール・リンポチェも共に受けられたので、通常は省略される部分も特別に行われた。
三万人もの人々が、この御二人のおかげで、この恩恵にあずかることができた。
最後の日、砂曼荼羅を拝見できたのは日が暮れた後だった。
今夜の列車で、私はカルカッタに向かうことになっていた。
世話になった人たちに礼を言って、私はテンプー(黒い三輪タクシー)の屋根に登った。
今回の灌頂の期間中、夜間にタクシーやテンプーに乗って、何人もの人たちが行方不明になり殺された。
真面目なチベット僧である友人が、最後まで心配してくれていた。
小さなテンプーの屋根は、私と荷物だけで埋め尽くされてしまった。
必要以上に揺れながら、テンプーは動き出した。
冬の北インドの凍てついた空気が流れ始める。
屋根は激しく振動し、カーブを曲がるたびに振り落とされそうになった。
私は屋根の縁にしがみついたまま、荷物の中で横になっていた。
星が少ない夜だった。
大きな赤い月が浮かんでいた。
濁った水たまりに足を入れたときのように、月のまわりで灰色の雲がもやもやと渦巻いている。
私は自分が殺される場面を観想した。
行者はたびたび唐突に、「今、すぐ死ぬ」ということをありありと観想してみるべきだ。
そうすれば、自分が「今を生きているか」がわかる。
灌頂を受けている時や、高度な教えを授かっている時、また、その前後に行者の内外に障碍が起こることがしばしばある。
それが定業(※)ならば、潔く死のう。
定業でないならば、生き続けよう。
無駄に殺されることは殺す者に悪業を積ませ、殺される者は人間の肉体を得るという成仏の好機を捨てることになるからだ。
干上がった大きな河が、月明かりに照らされている。
生まれてきた者は必ず死ぬ。
次の一瞬に、生きているという保証がどこにあるだろう。
死の原因は、身体の外と内に無数に存在し、今ここに生きていること自体が、いつの日か死ぬことを暗示しているのだ。
我々は、どのように生きるかということを通して、どのように死ぬかということを見つけなければならない。
死は、生の時間上に必ず同居しているのだから。
死に対する恐怖はなかった。
生に対する執着はなかった。
生まれてきた者は必ず死ぬ。
今生で得たもの、それらすべては仮の存在でしかない。
遅かれ早かれ、それらすべてを置いていかなければならない。
自分のものなど何一つ存在しない。
所有欲から離れ、身軽に生き、身軽に死んでゆくべきだ。
そこに豊かな生と、やすらかな死がある。
※定業=果報がいつか定まっている業