インドが植民地だった昔、ポルトガル人が造った街、ポンディシュリー。
この街はインドらしくなかった。
街の中心に公園があって、そこから放射状に道路が延びている。円形の道に囲まれた円形の街だ
私は一旦、円の中に入り、中心へと向かった。
そして、中心から外へと歩いていく。
円の外に出ると、そこは紛れもなくインドだった。
小さな木造の民家が並び、中年女性が道にしゃがんでいた。
背の高いヤシが騒がしい。
海からは、絶えることなく風が吹き付けている。
この辺りでは夕方になると、家の前に幾何学模様を描いておく風習がある。縁起が良いのだそうだ。
あちこちの家の前で、派手なサリーをまとった主婦たちが、チョークを片手にしゃがみ込んでいた。
家によってそれぞれ違う模様なので見ていて飽きない。
私は、下を向いて歩き続けた。
歩いているうちに、一枚の落ち葉に出会った。
落ち葉は心臓の形だった。菩提樹だ。
上を見ると茂った葉がせわしなく揺れている。
菩提樹の根元には象頭人身の神を祀る小さな祠があった。
私は手を合わせながら、その角を曲がり細い路地に入った。
民家の前で、妙に小柄な老婆が道端にしゃがみ込んだまま、鼻歌を歌っていた。
洗いざらしの縮れた白髪頭で顔が見えない。
子供の体に、老人の頭を無理矢理くっつけたような不自然さだ。
老婆は、微妙に調子がずれた鼻歌と奇妙な高音を発している。
耳があまり聞こえないのかもしれない。
老婆の横を通りすぎようとしたその時、私は立ち止まった。
道に目が釘付けになった。
鼻歌を歌いながら、路上にしゃがみ込んでいる老婆。
白い点を中心にして、赤と白の線が奇妙に交差した幾何学模様。
老婆が描いている幾何学模様はコーラムと呼ばれるものだ。
コーラムは家に幸福を招くために描かれるのだが、図像には様々な種類があり、こう描かなくてはダメということはないらしい。
私が眼を奪われた幾何学模様には見覚えがあった。
それはチベットのラサで高山病にかかって朦朧としているときに見た幾何学模様の一つだ。
老婆が描いているコーラムが伝統的な図形なのかは知らない。
もし伝統的な図形だとすれば、昔のインドの誰かも私と同じ顕現を見たのかも知れない。
意識野の内的映像が、外の世界に現象としてあらわれる。
私が体験する現象はすべて私の心が生み出したものであると同時に、私を包む環境の一切が、私の心の中に内包されている。
内的な成長が、外的な環境をよりよいものにしてくれる。
私は目に見えて暗くなっていく宿への帰り道をゆっくりと歩いていった。