インド 霊鷲山にて

India

 霊鷲山は小さな山だった。

 岩石が屹立した山頂部分が鷲に似ているから、霊鷲山といわれたとも、鷲がたくさんいた山だから、そう呼ばれたともいわれている。

 灌木がとりまく、岩がごつごつと剥き出した乾いた道を、私は歩いていた。

 小さな洞窟が、参道にいくつもあった。

 すべての洞窟の中に、何本ものろうそくの灯と、チベット人が奉納したカタという白い布が捧げられていた。

 その洞窟ごとに、そこで修行していた行者たちの説話が残っているのだという。

 山頂付近では、チベット人が奉納した神仏や真言などが描かれた五色の旗が大量に、風にはためいていた。

 この霊鷲山の山頂で、かつて『法華経』や『無量寿経』などの教えが説かれたのである。

 山頂部分は煉瓦で舗装されていた。

 そこは、二十人ほども座れば、いっぱいになってしまう程度の広さしかなかった。

『無量寿経』が説かれたとき、一万二千の出家修行者と、数えるのが不可能なほどの菩薩が、この小さな狭い場所に集まられた。

『法華経』が説かれたとき、一万二千の比丘と八万の菩薩と何万もの神々や人々が、この小さな狭い場所に集まられた。

 しかも、巨大な多宝塔までもが出現し、教えが説かれている最中にも、大地から地涌の菩薩が涌き出てきたりもした。

『法華経』の後半部分を説かれた釈迦如来は、「久遠実成の本仏」であり、想像をはるかに絶した遠い昔に成仏したのだという。

 人間の肉体を持ち、三十五歳で成仏し、八十歳で入滅された応身・釈迦如来と「久遠実成の本仏」としての釈迦如来を同等に考えてはいけない。

 想像をはるかに絶した遠い昔であっても、そこに数字的限定がある以上は法身とは言えない。

 しかし、その数字は実質上、無量であると日本の法華経の信者たちによって解釈されてきた。無量であるとするならば、それは生じたことがないということである。生じたのであれば、そこが始まりとして、必ず数値があるはずだからだ。

 生じたことがないものは、滅することもない。

 生じたこともなく、滅することもない、一切の存在の本質を身体とする仏陀を「法身仏」という。

 宇宙の隅々にまで浸透し、遍満している「法身仏」は、自らの胎内に、自らの分節体である説法の聴衆たちを生み出した。

 この狭い場所で、これだけの聴衆を前に説法を行うことができたのは、聴衆たちが法身仏と本質において同質であり、法身仏と同様、空間を超越していたからであろう。

 小さな山の山頂から見える景色は、果てしなく広大で荒々しかった。

 乾いた大地の半分は、灌木に覆われていたが柔らかみはなかった。

 目に見えない無数の聴衆たちを別にすれば、二千五百年前のある時、この場に居られたのは、生身の釈迦如来と数人のお弟子さんだけだったのかもしれない。

 霊鷲山の頂きにおいて、そのように素朴で、やさしい形で教えが相承されてゆく光景がありありと観じられた。

 そして今も、この地で説法し続けておられる釈迦如来に向かって、私は何度も何度も五体投地を繰り返した。

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