『諸神本懐集』1 浄土真宗的な立場から記された神仏習合論

神道・神仏習合

『諸神本懐集』の著者・存覚について

『諸神本懐集』は、浄土真宗の開祖である親鸞の玄孫(やしゃご)・存覚 (ぞんかく 1290-1373) が浄土真宗的立場から記した神仏習合論の代表的文献です。

「真宗的立場」としたのは、存覚の立場が「真宗の立場」とは異なるからです。

親鸞が『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』の顕浄土方便化身土文類において、
“仏に帰依せば、つひにまたその余のもろもろの天神に帰依せざれ”
という一文を『涅槃経』から引用し、神祇不拝を説いているとおり、浄土真宗は弥陀専念神祇不拝(阿弥陀仏のみに専念し、神祇は信仰しないこと)を宗旨としています。

ところが、存覚は『諸神本懐集』において、神祇に対しても信仰する意義を述べています。

存覚は、神社を「権社(仏の垂迹神をまつる神社)」と「実社(仏の化身ではない鬼神の類を祀る神社)」に分類し、権社は信仰すべきだが、実社は信仰すべきではないと説きます。

その上で、実社の諸神の本懐は念仏であると説き、念仏を勧めています。

存覚は本願寺第三代法主覚如(1271-1351)の長子であり、初期浄土真宗における優れた教学者であるとされています。

しかし、存覚の思想は浄土真宗的な見解を基調としながらも、浄土真宗の宗旨から逸脱したものでした。

存覚は、浄土真宗の教線拡大に尽力しましたが、見解のちがいだけでなく、実務的な面でも父・覚如と対立し、義絶と和解を二度繰り返し、和解後も本願寺別当職を継承しませんでした。

また、『諸神本懐集』には伊弉諾(イザナギ)を鹿嶋大明神、伊弉冉(イザナミ)を香取大明神とするなど、珍しい説が見られるのも特徴です。

『諸神本懐集』本文

諸神本懐集  本

それ仏陀は神明の本地、神明は仏陀の垂迹なり。本にあらざれば迹をたるることなく、迹にあらざれば本をあらはすことなし。神明といひ仏陀といひ、おもてとなりうらとなりて、たがひに利益をほどこし、垂迹といひ本地といひ、権となり実となりて、ともに済度をいたす。ただしふかく本地をあがむるものは、かならず垂迹に帰することはりあり。本よりたるる迹なるがゆへなり。ひとへに垂迹をたうとぶものは、いまだかならずしも本地に帰するいひなし。迹より本をたれざるがゆへなり。このゆへに、垂迹の神明に帰せんとおもはば、ただ本地の仏陀に帰すべきなり。いまそのおもむきをのべんとするに、三ノ門をもて分別すべし。
第一には、権社の霊神をあかして、本地の利生をたうとぶべきことををしへ
第二には、実社の邪神をあかして、承事のおもひをやむべきむねをすすめ、
第三には、諸神の本懐をあかして、仏法を行じ、念仏を修すべきおもひをしらしんめんとおもふ。

「本地(ほんじ)」とは「本来の境地やあり方のこと」であり、「垂迹(すいじゃく)」とは「迹(あと)を垂れる」という意味で「神仏が現れること」です。
『諸神本懐集』では、日本の神祇が、仏菩薩(本地仏)が権りの姿をもってあらわれた神(垂迹神)であるという本地垂迹説に基づいて論がすすめられていきます。

 

 

 

 

 

 

【本文】は、日本思想大系〈19〉中世神道論によりましたが、読みやすさを考慮し、カタカナをひらがなに改めました。

 

『諸神本懐集』2につづく

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