『坐禅三昧経』11「第二 瞋恚を治するの法門」2

仏教・瞑想

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『坐禅三昧経』10のつづき

問いて曰く、

「親愛・中人、楽を得せしめらるるを願うも、怨憎の悪人、云何が隣愍して復た楽を与うるを願うや」と。

答えて曰く、

「応に彼れに楽を与うべし。

所以は何ぞ。

其の人、更に種種なる好き清浄なる法因有り。

我れ今ま云何が豈(あ)に一怨を以ての故に其の善を没すべけんや。

復た次に思惟するに、是の人、過去世の時に、或いは是れ我が親善ならん。

豈に今まの瞋を以て更に怨悪を生ぜしめんや。

我れ当に彼れを忍ぶべし。

是れ我が善利なり。

又た行法の仁徳、弘慈(ぐじ)の力を含むこと無量なるを念じ、此れ失するべからず」と。

復た思惟して言わく、

「若し怨憎無くんば何に因りてか忍を生ぜんや。

忍を生ずること、怨に由る。

怨は則ち我れの親善なり。

復た次に瞋の報い、最も重く、衆悪中の上にして、是れを過(す)ぐるもの有る無し。

瞋を以て物に加うれば、其の毒、制し難し。

他を焼かんと欲すと雖も、実は是れ自ら害(そこな)うなり」と。

復た自ら念じて言わく、「外は法服を被(ひ)し、内は忍行を習す。

是れ、沙門と謂う。

豈に悪声すべけんや。

此れを縦(ほしいま)まにすれば色を変じて心を憋(ふた)がしむ。

復た次に五つの受陰とは、衆苦の林藪(りんそう)にして、悪を受くるの的なり。

苦悩の悪、来たりて、何に由りてか免るべけんや。

刺(とげ)の身を刺すが如く、苦の刺すこと無量なり。

衆怨、甚だ多くして、除くを得べからず。

当に自ら守護して忍の革屣(かくし)を著すべし。

仏の言えるが如し」と。

曰く、

「瞋を以て瞋に報ゆれば 瞋、還た之れに著す

瞋恚、報いず 能く大軍を破して

能く瞋恚せざれば 是大人(たいじん)の法なり

小人(しょうじん)の瞋恚 動じ難きこと山の如く

瞋、重毒と為りて 残害するところ多く

彼れを害(そこな)い得ずして 自ら害いて乃ち滅す

瞋、大暝(だいめい)と為りて 目有れども観(み)る無く

瞋、塵垢(じんく)と為りて 浄心を染汚す

是くの如き瞋恚 当に急ぎて除滅すべし

毒蛇、室に在りて 除かずんば人を害す

是くの如き種種に 瞋の毒は無量なるも

常に慈心を習せば 瞋恚を除滅せん」と。

是れ、慈三昧の門と為す。

『坐禅三昧経』12につづく

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