『阿字観』栂尾上人記 読み下し文 明恵上人の阿字観

仏教・瞑想

栂尾上人=明恵上人

阿字観 栂尾上人記

夫れ菩提心と者即ち阿字観也。阿字観と者本不生の理也。本不生の理と者即ち諸佛の心地也。諸仏の心地と者一切衆生之色心の實相也。色心の實相と者我が一念の心也。一念の心と者不随は悪に善に着せざるの心也。方寸の胸中に八分の肉團有り。悟の前には八葉の心蓮臺と顕る也。此の心蓮臺の上に阿字有り。變じて月輪と成る。月輪と者我か心に起る菩提心の質(すがた)也。我か心に此理を具するのみにあらず一切衆生も同く具へせり。乃至非情草木も皆悉く備へたり。青き草の葉の上に置く白き露の色も阿字の質也。心と者五體身分に遍すと雖恒の棲(すみか)は妙法の心蓮臺也。此の心蓮臺に我か神を宿すを阿字観とは申す也。阿字は即ち我か心の形なるが故也。心と者無相の法也。無相の法と雖流石に又音聲辨説と顕れて我か耳に吾か心の音聲辨説を聞く也。音聲を聞くと雖其質は見へず。無と云はんと為すれは音有。音に付て見んと尋ぬれは其の體見へず。有にあらず、無にあらず不思議の心也。一切諸法は皆因縁生の物也ければ心性の源清しと雖悪知識に随へは罪を造て苦を受け善知識に随へは功徳を営みて阿字の實際を顕はす也。苦を受け楽を受くるも共に一念に有り。故に此の理を知る人は心に浄土を搆て自ら往生し。此の理に迷ふ者は自ら地獄を作て心に苦を受く也。喩へは蠶の自ら口より絲を出して自身を纏縛するか如く。又無智の畫師の自ら可畏(おそるべき)夜叉を畫て還て自ら怖るるが如し。地獄極楽も我か一心の所作也。他人の搆ふる所に非ず。故に華厳経の二に云。「三界は唯一心なり心の外に別法無し心佛及び衆生是の三は差別無し」と。苦も楽も共に我か心也。厭へば速に離れ願へは則ち到る。善と云も悪と云も悉く一心の所作也。誰人か厭はざらん何れの輩か願わざらん。此の如く阿字の體相を観念するを無相の菩提心と名く也。作用に就て堂塔を造り香華供養する等の善根は有相の菩提心と申す也。此の二の菩提心の中には無相の観行最も勝れたり。諸仏の秘藏衆生の心地なるか故に。自心頓覺の教門之に如くは無し。又此を知るを月輪観とも申す也。月輪には三の功用有。一には清涼の徳是は冷徳也。二には光明の徳是は照暗の徳也。三には清浄の徳是は下界の塵にも垢(けが)されず上界諸天の楽にも着せず上下二界の間虚空に住する清浄の徳なり。吾か一念の心にも此の三徳を備へたり。是れ貪瞋痴三毒對治の功用也。一には我か心は本性清浄(蓮花)也と観すれは無始生死の間の貪欲の罪な滅す。貪欲と者他人の財宝を望み我か物を慳しと思ふ罪也。二には我心は本性清涼(慈悲)也と観すれは三界流転の間の瞋恚の罪を消す。瞋恚と者腹立てて違逆する罪也。三には我か心は本性光明(智悲)也と観すれは六道輪廻の間の痴煩悩を断す。痴煩悩と者至て愚なる心にして善悪を辨へざる心也。自心を了せざるを無明と名け申して總じて我か一念の心を知らざるを痴煩悩と云ふ也。此の三毒の煩悩を断する力我心に備へたりと雖知り難く悟り難き故に。彼の世間の月の三徳を以て心月輪阿字の體相用の三徳を知らしむる也。地水火風の四大和合する時神を不思議の中に宿すを且ク衆生と名く。此の四大種各離散する時衆生の身破失する是を死と云ふ也。喩へは桁梁梠椽等を採り集めて假に坊舎と名け。若し桁梁等離散すれは坊舎無きが如く。魂に定れる形無し此の身は終に吾に非す。家に常の主無し去れは常に住むべき形無し。有為の生滅の法也。常住なるは心性の月輪也。月輪と者即ち阿字也。阿字と云は我か一念の心也。一念の心と云は出入の息也。出入の息は即ち是れ命なり。死すと申すは息絶たるに名る也。息は是れ常住の月輪なるか故に有為の生滅を離て更に生死を論せず。又死と者業報の依身盡たるを死と云也。生と者當來の果報の始て顕はるるに寄て名けたり。生滅共に業力の所作也。其業力と者縁起虚假にして實體無き有為の法也。有為の法と者有始有終に名る事也。生は始死は終也。是の如く有為無常に迷ひ六道に輪廻の生死を離れず。是れ則ち我か一念の菩提心を悟らざるに依て也。此の阿字の観門に入れは死と云ふ業報の盡るしるしなれは歎き還って悦び也。爰を以て或文には「壽盡る時歓喜すること猶衆病を捨る如く」と。生死の歎きは妄想顚倒より起り合離の悲は迷の前の恨也。我等衆生は阿字は即ち一念の菩提心也と知らざる間は願ふと雖真実の菩提心に非す。厭ふと雖真実出離の行には非す。迷の前の是非は共に非也。夢中の有無は有無共に無也。現にも夢にも自心の菩提を悟るらざるか故に鎮へに輪廻の衆生也。静かに此の理を思ふに昨日と云ひ今日と云ひ日数を双れども且つ一念の間なり。過去現在未來と云ふも亦復是の如し。昔と云。今と云去と云來は云ふも只言の替り也。多劫の三世は即ち一念の間也。夢の中に千年の楽有りと思へども夢悟ぬれは千年の榮へも五更の枕に眠る間也未た真実を得ず。夢の中には長遠の修行を送ると雖即身成佛の悟りの前には五十小劫も只半日の間也。故に華厳宗には一念を延て永く三世を兼ね九世を攝して刹那に入ると釋するは即ち十世の相即ち一念の心也。大師は一念の阿字に三大僧祇を越ゆと釋し給へり。三大僧祇と者佛に成る事の極めて久しきを申す也。我か一念の菩提心即ち阿字也と知らずの無量劫の間佛道を求むる人也。此の人幾劫の間修行に心を費すと雖佛に成ること難し。爾るに一念無相の観行は彼の無量劫の間の修因に勝れたり。其故は無量劫久しと雖思へは只一念の間なり。一念の心には三世の不同無し。今とも昔とも時節の長短を云ふべからず。時節の長短を論する事は長も短も皆是れ妄心妄境也。最後臨終の時に出入りの息を数へ此の理を観するを正念に住すとは申す也。物を云ふには必す口を開けは初に定て阿の聲を出す也。即ち何と思はねども自然に唱ふる真言也。最後の一念に望む時は時分極めて短きか故に六字の名號も文字乱れて南無阿弥陀仏とも唱へ被しず。出る息の一刹那に今生の終りを極む也。生るる時には入る息に便りを得て阿と唱て生を續く也死する時には出る息に寄せて阿と唱る也。生を悦ひ死を歎く皆悉く妄念也。悦ふべからず歎くべからず。去も來も共に一念の阿字に住する故也。人間に來る時も心性の月輪に住し。娑婆を去る時も自性の阿字に魂を宿す。臨終に此の理を観念するを最後一念の往生とは申す也。若し悪業身を責め妄心正念を乱す時は只口を開て息を出入すべし。出息入息共に阿字の息也。阿字を唱ふる功徳不思議の力用あるか故に妄念漸く滅して正念に住する也。所詮我か心は即ち出入の息也。息は即ち阿字也。阿字は即ち一念の菩提心也。菩提心は即ち毘盧舎那の内證也。毘盧舎那は即身自佛の悟也。周偏法界の大智恵の光明也。爰を以て金剛薩埵大日如來に問ひ奉て云く云何か菩提心と。如來答て曰く實の如く自心を知る也と教へ給へり。自心を知ると云ふは我か一念の菩提心は者阿字なりと悟れと示し給ふなり。故に大日経疏に釋して曰く。「一切如來昔此の門に由て而正覺を成し玉ふ異路有ること無し」と。成佛の道二無し只此の一念の阿字の一門なりと判し給へり。一切如來十方の菩薩伝法の聖者皆悉く阿字門に帰し玉ふ。設ひ其の心に知らずとも仰て信を致すべし也。金剛智三蔵の言く。「此の理を知ると雖不信の人は三世の諸佛を誹謗する罪を受け佛法の中に重罪を犯して必す三悪道に堕すべし」と釋し給へり。故に仰て信すべし習ひて行すべし。努力努力空く過す事莫れ。最後の一念の阿字息風と共に出てて。法界圓明の月輪と顕れ虚空に住して虚空に周遍する也。心と虚空と菩提との三は即ち阿字にして同體也。心と者阿字菩提心也。虚空と者常の虚空に非す我か一念の菩提心也。其量を思ふに廣大無邊際の心也。三世の心不可得なるか故始中終只一念の間也。昔と云今と云ふ年は替れども太虚空は替らず。昨日今日の言は二なれども其日は只一也。是の如く有る事は餘所に非す。併を我か身に備れり。盛年二十五の形と衰老九旬の質與齢ち双れは假ひ老若不同なりと雖心は只一也。年月は積れども心は改まらず。年は替れども心は老ひず。加様に百千無量劫と云ひ乃至一念十念と申すも我か心性の月輪の上の時節長短の論は偏に發心の前後に依て成佛の遅速を知らしむ也。劫数を経ると経ざるとの差別計り也。成佛の遅速得道の遠近は只一念の菩提心阿字本不生の理を悟る程也。此の一念不生の理は周偏無際の我か心也。故に世間無碍の虚空を喩へとして出世無際の阿字菩提心の法を顕す也。喩の月輪は全く法の阿字心月輪也。喩の虚空は同く全ひ法の阿字無障碍堅固金剛の同體阿字の虚空也と了知するを阿字菩提心と名くる也。佛と云ひ衆生と云ふも知と不知との差別也。知を實智と云ひ不知を妄念と名く也。爰を以て或経文に云く。「妄念に由るか故に生死に沈み實智に由るか故に菩提を證す」大師は「知ると知らざると誰か罪過そ」と釋し給ふ也。我も人も曠劫多生の昔より此の理を悟らざる故に今に至って生死を出でず也。唯早く萬事を抛て一心に観行すべし。有相の行は修し難くして而至り難し無相の観は行し易くして速に正覺を唱ふ。行住坐臥四威儀怠ること無く観行すべし。三密の観行は唯一念の阿字に如かず。値ひ難き思を凝して観行を自性の蓮に宿すへし。常の観行は疎なりと雖臨終には必す顕はる也。速に疑心を捨て妄念散乱の心を断して能能一息の阿字を観じて早く決定成佛の思を凝すべし矣。「如彼三世中諸佛菩薩等○乃至心数曼荼羅」若し人此の字を観せは自心の中に白色八葉の蓮花有。蓮花の上に一肘の月輪有。其月輪の中に金色の阿字有。白色の光を放て無邊の世界を照し一切有情の身中の無明煩悩を除く。其の字観立すべし。其の月輪は水精の玉のうつろなるが如し。月輪は智也。阿字は理也。
以上明惠上人御房作

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