バリはテーマパークのように観光化された島だ。
めぼしい宗教施設や行事はほとんど観光化されていて、外国人観光客から外貨を得るためのショーになっている。
南国らしい巨大な葉の上に、焼き豚と米をのせた料理を出す地元の食堂で、向いに座っていたマデさんという男性が話しかけてきた。
これは日本の寺院にも言えることだが、という前置きを付けて、寺院のテーマパーク化をどう思うかとマデさんにに尋ねてみた。
「わからないよー」
いかにも南国らしい答えだ。
食堂で話しているうちに「テーマパークではない本当のバリを見せてやるよ」ということになった。
マデさんの家はバリのどこにでもあるコンクリートで作られた四角いものだった。
大きなパパイヤが、夕日を背景に庭の木にぶらさがっている。
バリの家屋は、部屋の大きさから間取りや方角までが、呪術的に細かく規定されている。だから、金持ちでも、貧乏人でも、同じ大きさの家に住んでいるのだという。違うのは住んでいる人数と鉄筋か木造かの違いなのだそうだ。
私は、サロンという布地を腰に巻かれ、サファリという上着、ウダンというはちまきみたいなものを身につけさせられた。これがバリ人の正装らしい。
日が暮れてから、マデさんの車に乗り込んだ。マデさんの奥さんと赤ん坊も一緒だ。
雨期のバリの月夜はおどろおどろしい。
幾重にも重なった薄雲は、月に照らされ不気味なまだら模様を織りなしている。
コウモリたちが飛びまわっている。
野良犬たちが闇に向かって吠えている。
車は次第に山の奥へと入って行く。少しづつ街灯が少なくなっていく。
私はずいぶんと長い間、車に揺られていた。
道に覆い被さる大木の下に車が止まった。
私たちは車から降りた。
緑色のぼってりとした身体に、赤い吹き出物をたくさんつけた両生類が、寺院の壁にへばりついている。
鳥とはまったく違う生き物だが、鳥のように鳴いていた。
バリヒンドゥーの寺院の塀は低い。
その周辺に密生する植物は塀を超えて境内にまで覆い被さり、境内の木々と混ざり合っている。
上だけ見ていると、どれが境内の木でどれがジャングルの木なのかわからない。ジャングルと境内の空間は塀で隔てられつつも、融合しているのだ。
家屋の造りが呪術的に規定されているように、村の構造も呪術的に定められている。
バリ中のどこの村でも北にヴィシュヌ寺院、中心にブラフマー寺院、南にシヴァ寺院が配置されている。
ヒンドゥー教は多神教であり、その中で中心となるのはブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三神である。
村の中心に祭られているブラフマーは世界を創造し、北に祭られているヴィシュヌが世界を維持し、南に祭られているシヴァが破壊し再生する。
バリ中、どの村でもヴィシュヌ寺院が一番大きいのは、この豊穣な島に住む人々が現状維持を望んでいる一つの証であろう。
外門は、塔が真ん中で二つに割れたような形をしている。
マデさんが言った。
「ここで悪い心を捨てて境内に入るんだ」
ブラフマー寺院以外のヴィシュヌ寺院とシヴァ寺院は二重構造になっているため門が外と内に二つある。
仏像が作られる以前から仏塔が作られていたように、古来、塔は真理の象徴である。
龍猛菩薩が真言密教を伝授されたのが南インドの鉄塔の中であったように、塔は真理が隠された場所でもある。
二つに割れた塔門から分節前の世界である境内に入る。
不気味な旋律が聞こえてきた。
祭りはすでに始まっているのだ。
その旋律は心の深層にまで深く響くが、決して瞑想のための音楽ではない。
寺院に響くおどろおどろしい旋律は、不安をかきたて、心の奥底から、深い恐怖心を汲み上げ出す。
絶対的な存在の前では、あらゆる存在が無力であることを思い起こさせようとする。
境内の内門は二つに割れた形ではない。
二つに割れた外門は、本来一なる絶対的真理が自己分節の結果生み出した「梵と我」であり、「男と女」であり、「善と悪」であり、「浄と不浄」であり、世界のあらゆる相対的顕現であり、二元論的認識である。
左右の塔門が対称を成しているのは、対称的な二つの現象が本質的には同一原理に基づいた存在であるということだ。
一つの塔門である内門は唯一絶対の真理の象徴である。
寺院の外から境内の中心にある本殿へ向かうということは、相対的世界から、唯一絶対の世界へ入っていくということなのである。
ところが、ブラフマー寺院だけは内門がないそうだ。
それはブラフマーが過去の神であることと関係しているのかもしれない。
インドのヒンドゥー行者は、解脱するために修行する。
しかし、バリ・ヒンドゥーでは、現代は不浄な時代なので解脱は不可能になったとされている。
「この島にいたら、解脱したいなんて思わないよ」
マデさんが言った。
現代のバリ人は、現世利益のために神を祭り、神に祈る。
バリアンと呼ばれる呪術師たちも、解脱のためではなく、超能力獲得のために瞑想をしているのだという。
門の内側は、暗黒のジャングルへとつながっている。
その無限の暗黒から、真理の自己分節体である神々が、不気味な不協和音と共に、人間界へ流出してくる。
バリの神々は、ジャングルにいる動物や虫たちのように色彩豊かで実にけばけばしい。
眼球を剥き出しにした白い仮面の男が、一なる門から出てきた。弦楽器が生み出すか細い虫の羽音に合わせ、長い爪を振るわせている。
警戒するようにゆっくり出てきたかと思えば、いきなり痙攣的に動いた。爬虫類の動きだ。
彼らの動きは神の動きを模したものであるという。
バリと緯度的に近いパプアニューギニアでは、死んだらジャングルへ行くのだと考えられている。
ジャングルは、死者の逝く場であり、神々の住まう場でもある。
バリの土着神であるバロンや魔女ランダがジャングルに住む動物の姿そのものであることを指摘するまでもなく、バリの踊り手がまねる神々の動きは悉くジャングルに住む動物や虫たちの動きである。
しかし、だからといって短絡的にバリの神々はジャングルに住む動物や虫たちなのだと考えてはいけない。
具体的な形を持たない神が、具体的なモノに乗りうつることで人々の目の前に顕現する。
不協和音が奏でる旋律の中で、ゆったりとうねりながら蛇のように眼球を動かす二人の踊り子。
マデさんは、いつのまにかゴザの上でいびきをかいて眠っていた。マデさんが眠ってしまったということは、私も宿に帰れないということだ。
私もゴザの上で横になった。
羽虫たちがろうそく灯りの周りをせわしなく飛び回っている。
雨期のバリの月夜はおどろおどろしい。
幾重にも重なった薄雲は、月に照らされ不気味なまだら模様を織りなしている。
コウモリたちが飛びまわっている。
まどろみの中で、見ることなしに神々の動きを眺めていた。
踊り子は、神々にダンスを奉納する巫女であると同時に、胎内に神を宿している神そのものでもある。
満月に淡い光を与えられたまだら雲は、少しずつ西へ流れていく。
朝になれば、神々はまた、ジャングルに帰ってしまうのだ。