水平線が視界いっぱいに伸びていた。
断崖絶壁の上から見渡す海は、どこまでも碧かった。
私は崖の上を北へ歩いていた。
店や屋台がなくなり、ヤシが林立する斜面を降りてゆく。
遠くから、男たちのかけ声が聞こえる。
ヤシ林の向こうに、白い砂浜が見えた。よく日に焼けたごつごつした漁師たちが、地引き網を引いている。
風に揺れるヤシの葉の間から、白い灯台が顔を出していた。
私は、倒れ朽ちたヤシの木の上に座り、その光景を眺めた。
男たちはかわるがわる海側へ走り、網を引き上げてゆく。
ヤシの木にぶつかると網を放って、また海に駆けだしていく。
やがて、砂の上に引き上げられた魚たちは、栓を開けたばかりのコーラのように、ぴちぴちと跳ね上がった。
私は、再び椰子の林を抜け、崖の上に登って行った。
広大な海に、小さな太陽が沈んでいく。
私は、赤い陽の光を眼球に入れ、崖の淵に座り続けた。
くるくると飛び散る光明の粒子の中に、自然界には出現しえない奇妙な虹が立ち昇る。
ゾクチェンのトゥカルという瞑想は、太陽などの光を利用して、心の本性の顕現である鮮やかな五色の曼荼羅を肉眼ではっきりと見せてくれる。
海の向こう側へ日が沈んでも、まだ、太陽が残していった色彩が薄い雲を染めていた。
私は立ち上がり、崖の斜面に削りだされた階段を降りて行った。
暗くなった波打ち際で、両手で海水をすくい、熱くなった目を冷やした。
夜空が星で埋め尽くされる頃、私は食事に出かけた。
安宿は内陸部にあったので、崖に行くには林を通って行かなくてはならない。
懐中電灯で足元を照らしながら歩いていく。
ヤシの林を歩くときは頭上にも注意しなければいけない。
いつヤシの実が落ちてくるかわからないからだ。
ヤシの葉の間からは、星たちが覗いていた。
崖の上の屋台は、大きな夜の中で小さなろうそくに照らされていた。
私が注文すると屋台の主人は首をかしげた。インドで首をかしげるのは、日本でうなずくことと同じなのだ。
主人はインドでは珍しい笑顔を持っている人だった。
「ここ、いいっすか」
テーブルの前に、ひび割れた眼鏡をかけた日本人が立っていた。
表情は見えなかったが、蛍光色の眼鏡のフレームだけが、必要以上に闇の中でくっきりと見えた。
しばらくクスリ漬けだったので、クスリを身体から抜くために、ゴアから休養に訪れたのだという。
ひび割れた眼鏡は、ドラッグを服用して踊っているとき、転げて割ってしまったのだそうだ。
彼は、ドラッグによる体験のすばらしさを私に熱く語ってくれた。
闇の中で眼鏡が熱弁しているかのようだった。
眼鏡は、瞑想なんかしなくても、ドラッグで「悟れる」とまで言った。
確かに、瞑想体験を文章にしたとき、ドラッグ体験を記したものと、表現が似通ってしまう。
それを否定するために、体験は同じでも内容がちがうとか、副作用の有無がちがう、と言った人がいた。
しかし、副作用や、内容がちがうことはもちろんであるが、ドラッグと瞑想のちがいは、体験において、すでにまったくの別物である。
道の途中には、似たような体験、同種の体験も確かにある。
しかし、目指すべき体験はまったくちがう。
瞑想による強烈な体験は、LSDなどの幻覚剤がもたらす変性意識体験よりも、はるかに鮮やかで、強力であり、素晴らしいものだ。
瞑想体験は、その人を根底から覆し、その人の人生をそれまでとは、まったく違う素晴らしいものにしてくれる。
ドラッグが見せる人工の光は、錯誤した意識の光である。
光には多くの影がある。
慈悲は影ではなく光だ。
ヤシたちは、もう眠っていた。
部屋に戻った。
停電だった。
座って懐中電灯を消し、闇の中で姿勢を定めた。
私は瞑想を始めた。
夜は、昼と同じくらい大切だ。