自らの豊満な胸をわしづかみにする恍惚の女神。
胸と、両手と、顔が崩れ落ちた彫像を前に私はそのような女神をみた。
カイラーサナータ寺院の入り口に浮き彫りにされたその女神は、この黒い寺院の思想を強く訴えている。
女神は蓮の花の上で蓮華座を組んでいた。
蓮の花は泥沼に咲きながら、泥に汚されることがない。それは濁世にあっても、清らかな存在であることの隠喩である。
その花の上で蓮華座を組んでいるということは、女神が清らかな瞑想状態にあることを示している。
その清浄なる女神が、自らの女性性の象徴である豊満な胸をわしづかみにすることで、自らの性的エネルギーを強烈に顕示していた。
浄と不浄が不二である境地に到ったとき、あらゆる思考は明知の光明として放たれる。
人間のもっとも強力な根源的欲求の一つである性欲を逆利用し、性欲の力を清浄なる歓喜に変容させる。
この女神の存在そのものが、その重要な教えを暗示していた。
この巨大な建造物と、そこに蠢く無数の神々の彫像、その一切が継ぎ目のない一つの岩から削り出されたものである。
寺院の中は湿っていた。
彫刻はすばらしく、湿った岩の中から躍動する神々の姿が浮き出てきたかのようだった。
抱き合った男女の神々が薄闇の中で官能的に、それでいて激しく踊っている。
なめらかな石像は少しでも目を離すと動き出しそうだ。
神の前に座って目を閉じてみる。
「におい」がする。
懐かしい「におい」。
これは、コウモリの糞尿の「におい」だ。
私は、この臭いがたちこめる洞窟の中で数時間、瞑想したことがあった。
嗅覚は、人間の感覚器官の中で最も原始的なものの一つである。視覚や聴覚器官のない単細胞生物でさえ嗅覚は備えている。
嗅覚は時として、驚くほど鮮明に記憶を引きずり出す。
『維摩経』に、言葉ではなく「におい」によって説法する香積如来の話が出てくるが、ありえない話ではないと思う。
コウモリの住む洞窟の中は真っ暗だった。
仏像の前には灯明が献じられていたが、少し離れると闇だった。
コウモリの糞が、足の裏にざらざらとした感覚を与えた。
闇の向こうがどうなっているのか。
闇は、すぐそこで終わっているのかもしれないし、どこまでも無限に続いているのかもしれなかった。
闇に向かって、私は座った。
闇が動いている。
暗闇の中にいる人間は、実際には存在しない者の気配を感じるものだ。
膝の上を何かが駆け抜けていった。ねずみにしては大きく、猫にしては小さかった。
姿勢を定めて、眼球に意識を注ぐ。
しとしとと、水滴が落ちる音。
蠢く闇。
におい。
外的な現象のすべては心が生み出した幻影である。
しとしとと、水滴が落ちる音。
蠢く闇。
においがなくなったとき、身体の感覚がなくなっていた。
暗闇と一つに溶け合ったとき、鮮やかな光明の種子が暗闇の中で動きだした。