Thailand 遊行記

タイ バンコクにて

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 バスは、長い間、停まっていた。

 南国の夜のなまぬるい空気が、開け放された窓からぬるりと侵入し、肌にまとわりつく。

 乗客がまばらなバスの中にはタイの演歌が控えめな音で流れていた。

 テープに合わせて陽気な運転手が、体をくねらせながら歌っている。

 

 バスがゆっくりと走り出しては、また止まった。

 乗務員のおばさんは眠そうな目をこすりながら窓から首を出した。

「事故だね」

 運転手が、演歌のメロディーにのせて「知ってるよ」と答えた。

 突然、後ろから、青いサイレンが猛スピードで追い越していった。

 レスキューだ。

 その後を何台ものスクーターが追いかけてゆく。

 レスキュー隊はボランティアだが、合法的に暴走できるので、若さがありあまった者たちが志願してくる。

 警察がのんびりしているタイでは、意外と重宝しているそうだ。

 レスキュー団体はいくつかあり、事故情報が入ると一斉に出発する。一番早く現場に駆けつけた団体だけが、その現場を仕切れるのだ。

 今でこそ、あまりにも残酷な写真は使われなくなり、モザイクが入るようになったが、この頃は、まだ腸が飛び出した遺体や、脳髄が頭から流れ出しているものまで、新聞にモザイク無しのカラーで載っていた。

 そこには遺体だけでなく、現場に一番乗りしたレスキューの隊長も一緒に撮影される。

 隊長はちょっとした有名人だ。

 顔が整った隊長がいるレスキュー隊には、おっかけがつく。

 おっかけは大抵、死体写真などを好んで見るような奇特な少女たちで、運が良ければ自分たちも、生の死体をみれるとあって、スクーターで暴走していく。

 感受作用を道としない限り、官能的なものは退廃の種子となる。それは、心の連続体を汚染し、増長し続けるおぞましい苦痛として現象化するだろう。

 現場は手際よくテープで結界され、いくつものフラッシュがたかれていた。

 友人が出家したタイの僧院では、僧侶を病院に連れていき、遺体を解剖するところを見学させてくれたそうだ。

 釈迦如来の時代から、修行者は遺体を観て、慈悲心を起こし、無常を知り、不浄を観じ、出離心を発してきた。

 遺体を観ることを高い見解を得るための瞑想の糧としてきたのだ。

 レスキューのおっかけが「死体を見る」ことと、行者が「遺体を観る」ことは、本質的にまったく異なる行為である。

 形象そのものは善でも、悪でもない。それを認識した主体の受け取り方が悪であり、善なのである。

 あらゆる認識される形象はすべて虚妄である。

 あらゆる形象は形象に非ずと見る。

 そのとき、あなたは如来を見る。

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