その日、私は完全な調和の中にあった。
私は全体であり、全体の中で歩いていた。
海沿いの強烈日射しが、焼けたアスファルトにくっきりと私の輪郭を照らし出している。
海面の小さな波の一つ一つが銀色に輝き、瞬間毎に生滅を繰り返していた。
それがずーっと、水平線まで続いている。
その上に広がる大空は、水色だ。
タイ語で「空色(シーファー)」といえば、それは「水色」のことである。
タイで真っ青な空というのは見たことがない。タイの空はいつも水色なのだ。
だだっ広い空を眺めながら、通りを歩いていく。
ブロック塀の角を曲がったとき、不意に見たことがないものが視界に飛び込んできた。
それは、その家の庭から塀を乗り越え、大きく道にぶら下がっていた。
三十センチくらいの長さで、赤紫だった。
それは、全存在を凝縮して、そこにあった。
思考は、まったく起こらなかった。
心は、完全な静寂の中にあった。
私は何の動機も持たず、ただ観ていた。
後に、私は、それがバナナの花だと知った。
だが、その存在感は、花という概念をはるかに凌駕していた。
花というには、大きすぎて、グロテスクですらあった。
それは全世界を自身に凝縮して、そこにあった。
それは、心が生み出した自身をあざむくような幻影ではない。
それは全体の中にある。
それは視界の中にある。
花は赤紫で、葉は緑。
空は水色だ。
世界の色が、世界だ。