ポロンナルワという小さな村で、トゥクトゥクの運転手に「サファリに行かないか」と誘われた。
スリランカのサファリは、日本のサファリパークとはちがい、本当に野生の動物たちが見られる。
行ってもよかったが、私には金銭的余裕がなかった。サファリに行くなら、安くあげても百ドル以上の出費である。
「四百ルピーでいいよ。野生の象や孔雀に会えなかったら金はいらない。嘘じゃないよ。本当、本当」
嘘かもしれなかったが、四百ルピー(六百円)なら騙されてやってもいい。
私はトゥクトゥクに乗り込んだ。
トゥクトゥクはタイ語だが、旅行者がトゥクトゥクというのでスリランカでもトゥクトゥクと呼ばれるようになったそうだ。
フロントガラスの上に貼られていたステッカーには、仏陀を中心に、四柱のヒンドゥー神がプリントされていた。
スリランカ仏教を純粋な仏教だという人がいるが、いかなる文化の影響も受けていないという意味での純粋な仏教というのは、どこにも存在しない。
そもそも釈迦如来の時代に、仏教はすでにインド化していた。
概念的思考を超越した仏陀の教えの心髄が、概念的思考を基とする言葉で説かれる。その時、教えは何らかの文化的制約を受けることを免れることはできない。
しかし、スリランカ仏教の文化的変容は、そこまで微細なものではない。
あきらかにヒンドゥー化した仏教だった。仏教寺院の中に堂々と、ヒンドゥーの神像が祀られている。
仏教は、もともと固定化した独善的な教義を持たない。教えが東へ、東へと伝播していく過程で、通過した土地土地の文化を吸収し、少しずつ変容していった。
しかし、教えの核心は変わっていないし、変えられるものではない。変容は表面的なものでしかない。
もし、教えの本質が変わってしまったのであれば、それはもう仏教ではない。教えが変わってしまったというよりも、教えの伝承が途絶えてしまったのだということだ。
トゥクトゥクは二十分ほど走り、私を、ゴミ捨て場に降ろした。
野球場くらいの広さの土地が、汚物で埋め尽くされていた。
「この地方のゴミが全部、ここに集められるんだよ」
ジャングルに行かないのか。
「よく見ろ。あのゴミの向こうに広がるジャングルを」
ゴミの山は、ジャングルの一部だった。
ジャングルの一部を、人間がゴミ捨て場にしたのだった。
尻に焼き印を押された家畜の牛と、密林から出てきた象と孔雀がゴミをあさっていた。汚物の中で青光りしている孔雀が、何とも毒々しかった。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
私がまだ少年だったある日、偶然、山の中でキジと出会ったことがある。
人間と会ったのに、キジはまったく動揺していなかった。
逆に、私に向かってくるような毅然な態度で胸を張っていた。
美しかった。
色目を抑えた控えめな色彩が、日本の山の峻厳な風景と一体となり、そこに一つの世界の在り方を取り出して見せたかのようだった。
キジが持っていた威厳を、ここの孔雀たちは少しも持ち合わせてはいない。
ゴミの中で、煩悩のおもむくままに動き回る孔雀たちは、汚物に群がる銀バエを思わせた。
私は、牛と象と孔雀たちの幸せを祈らずにはいられなかった。
一切の存在は、相互依存の関係によって存在している。
自らの業が環境に影響を及ぼし、個々人の行為が世界の未来を左右する。
責任を伴わない自由を主張する者は、略奪することで失うだろう。
人は与えることで、得るのだから。
目を開くと、運転手が私の顔をのぞき込んでいた。
柔らかい夕日が、ジャングルの深みの中に沈んでゆく。
私は、トゥクトゥクに乗り込んだ。