「日本人、コレ買ウ、コレ」
タイガーバームと万能ナイフを入れた箱を片手に、目つきの鋭い男が必要以上に近づいてきた。
いらないよ。
「高クナイ。買ウ、コレ?」
いらないよ。
男は急に小声になって言った。
「ちゃらーす買ウ?ちゃらーす?」
いらないよ。
男はくるりと背を向け、足早に去って行った。
デリーは変わった。
四年振りに訪れたこの街の住人たちはすっかり毒が抜かれ、インドの他の地域の人々と変わらなくなっていた。
世界一しつこかった物売りたちも、すっかりおとなしくなっていた。
四年前は宿から一歩外へ出ると、日暮れまで物売りにまとわりつかれたものだった。
クスリ売りも減った。
以前は大げさではなく、二メートルごとに声がかかったものだった。
路地を曲がると、見たことのない通りに出た。
私は知らない道を歩いていくのが好きだ。
見たことのない道。
自分でもどこをどう歩いて来たのかわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。
路地を抜けると大通りに出た。
強すぎる太陽の光を遮るものは何もなかった。
車が激しく行き交う埃っぽい道の真ん中に、その行者はいた。
黄色の腰布一枚に小さな袋を肩に下げた半裸の行者が、四つん這いで立ち往生している。
このような道を横断することには慣れていないようだった。首を伸ばして車の往来をおろおろと見まわしている。
横を走り抜けたダンプが黒い黒煙を吹き上げて行く。行者は咳をしながら、排気ガスと埃にまみれた顔をくしゃくしゃにした。
私は車の往来をすり抜け、行者のとこまで走って行った。
行者の荷物を持とうとすると噛みつかれそうになった。
私と行者は一緒に車の流れを渡った。
私は二本の足で渡ったが、行者は四つ足で渡った。
退化してやせ細った両足が、長年、四つん這いで生活し続けていることを物語っていた。
私は、行者にくしゃくしゃの紙幣を布施した。
行者は笑顔を見せたが何も言わなかった。
私が何を尋ねても、何も言わなかった。
そして、何も言わないままに、小首をかしげて四つ足で去っていった。
四つ足で生きることが、あの行者の修行なのだ。
似たような行をネパールでしたことがある。
山の中で素っ裸になり、餓鬼や畜生などになりきるのだ。
畜生の時は四つ足で走ったりした。
輪廻の苦しみを体感し、衆生に対する慈悲と出離の心を増大させていく。
私は、細い路地に入り、右に曲がった。
小さな常緑樹たちがやさしい木陰をつくってくれてる。
解脱は、煩悩を断滅することによって起こる。
動物のまねをすることによって解脱できるのではなく、そこから得た見解を瞑想の糧として修行していかなければいけない。
行者は、まず自分が行じる修行がどういうもので、どういう意味をもっているのか、正しく知るべきだ。
見た目だけ真似ても、意識の次元で行じてなければ、ほとんど意味がない。
並木道は小さな公園に続いていた。
三本の木とベンチとブランコと小さなジャングルジムと青銅の像があったが、誰もいなかった。
公園に入っていく。
小さな公園に不釣り合いな大きな像。
インドのあちこちで見かける像の土台には、
「Mohandas Karamchand Gandhi 1869~1948」
と彫ってあった。
ガンジーは凶弾に倒れたとき、「ラム、……ラム」と神の名を呼んだそうだ。
股に蜘蛛の巣が膜をつくっている。
顔は笑っているが、両足にはひびが入っていた。
私は知らない道を歩いていくのが好きだ。
見たこともない道でのみ、見たこともない風景が見られるからだ。