『大和葛城宝山記』解説1  読み下し文 行基菩薩 ビシュヌ

大和葛城宝山記

大和葛城宝山記(やまとかつらぎほうざんき)は、両部神道を代表する書の一つであり、大和葛宝山記、大和葛木宝山記、葛城宝山記、神祇宝山記とも呼ばれます。

奥書に“天平十七年辛酉四月一日”、とありますが、一般には鎌倉時代後期に成立したと考えられています。

大和葛城宝山記   行基菩薩撰

“大和(やまと)”は狭義には奈良、広義には日本を指します。

「葛城宝山」とは、奈良と大阪の県境に位置する葛城山(かつらぎさん)です。

撰者の行基菩薩(668-749)は、聖武天皇(701-756)・良弁僧正(689-774)・菩提僊那(704-760)とともに、東大寺の四聖の一人とされる奈良時代の代表的な名僧です。

行基菩薩は、神仏習合における重要な祖師の御一人です。

行基菩薩は、東大寺の大仏造営のために尽力されたが、そのために聖武天皇の勅使として伊勢神宮に参宮されたことが、通海(1234-1305)の『太神宮参詣記』などに記されています。

『太神宮参詣記』には、その際、行基菩薩が、“一粒の仏舎利”を奉納し、“内宮南の御門大杉の本に、七日七夜参籠して、此事を祈念の処に、太神宮御殿ひらきて、告ての給はく……”と、このあと、天照皇大神(アマテラス)から“仏舎利を“飯高郡に埋(うずめる)べし”などの託宣を授かることが記されています。

【読み下し文】蓋し聞く、天地の成意、水気変じて天地と為ると。十方の風至りて相対し、相触れて能く大水を持(たも)つ。水上に神聖(かみ)化生して、千の頭二千の手足有り。常住慈悲神王と名づけて、違細と為す。是の人神の臍の中に、千葉金色の妙宝蓮花を出す。其の光、大いに明らかにして、万月の倶に照らすが如し。花の中に人神有りて結跏趺坐す。此の人神、復(また)無量の光明有り。名づけて梵天王と曰ふ。

違細(いさい)とはビシュヌ神であり、漢訳では、毘瑟怒(びしゅぬ)、毘紐(びちゅう)、韋紐天(いちゅう)などと表記します。

異本には、“違”ではなく、“葦”という字を当てていますが、これは

『日本書紀』に、“時に、天地の中に一つ物生(な)れり。 状(かたち)葦牙(あしかび)の如し。 便(すなわ)ち神と化爲(な)る。 國常立尊(クニノトコタチのみこと)と号す。”

また、『古事記』に、“次に國稚(わか)く浮かべる脂(あぶら)の如くして久羅下那洲(クラゲなす)多陀用幣琉(ただよへる)時に、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物に因(よ)りて成りし神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遲神(ウマシアシカビヒコジのかみ)”

葦牙(あしかび)にかけてのことだと思われます。

原初の大海に浮かぶヴィシュヌのヘソから生えた蓮華上に梵天が生じるという場面は正しくヒンドゥー神話そのままです。

※参考 ヒンドゥー教の三大神を生み出した観音菩薩

【読み下し文】此の梵天王の心より、八子を生ず。八子、天地人民を生ずる也。此を名づけて天神と曰ふ。 亦天帝の祖神と称す。

続いて、梵天王は心臓から八柱の神を生み出します。

八柱の神は、天御中主尊(アメノミナカヌシ)、高皇産霊皇帝(タカミムスビ)、伊弉諾尊・伊弉冉尊(イザナギ・イザナミ)、大日孁貴尊(オオヒルメ)、瓊瓊杵尊(ニニギ)、豊布都霊神(トヨフツ)、大国魂尊(オオクニタマ)、一言主神(ヒトコトヌシ)です。

ここでは、伊弉諾尊・伊弉冉尊(イザナギ・イザナミ)あわせて一柱と数えています。

記紀神話では、伊弉諾尊(イザナギ)から大日孁貴尊(オオヒルメ=アマテラス)が生まれ、その孫が瓊瓊杵尊(ニニギ)です。

八柱の他の神々も、別々に生じたのですが、ここでは、梵天の子であり、兄弟姉妹という関係で生じたとされています。

【読み下し文】天御中主尊〈無宗無上にして、独り能く化す。故に天帝の神と曰ふ。亦(また)天の宗廟と号す。天の下に到る則(とき)は、三身即一の無相の宝鏡を以て神体と崇めて、伊勢の止由気の宮に祭る也〉

“伊勢の止由気の宮”とは、伊勢神宮の外宮のことです。

外宮の祭神は豊受大神(トヨウケ)です。

ここでは止由気(トユケ)と表記しています。

外宮の主祭神であるにも関わらず、豊受大神(トヨウケ)は『日本書紀』には、なぜか登場しません。

『古事記』では、伊邪那美命(イザナミ)の孫、和久産巣日神(ワクムスビ)の子として登場します。

その、『古事記』において、最初に生じた神が、天御中主尊(アメノミナカヌシ)です。

本来、豊受大神と天御中主尊は別の尊格でしたが、中世、豊受大神(トヨウケ)は天御中主尊(アメノミナカヌシ)と習合し、同じ神であると解釈されました。

 

『大和葛城宝山記』2 につづく

 

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