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『諸神本懐集』7のつづき
諸神の本懐をあかして仏道にいり、念仏を勤修すべきおもむきをしらしむ
第三に、諸神の本懐をあかして仏道にいり、念仏を勤修すべきおもむきをしらしむといふは、一切の神明、ほかには仏法に違するすがたをしめし、うちには仏道をすすむるをもてこころざしとす。
これすなはち和光同塵の本意をたづぬるに、しかしながら八相成道の来縁をむすばんがためなるゆへなり。
このゆへに、ふかく生死のけがれをいむは、生死の輪廻をいとふいましめなり。つねにあゆみをはこばしむるは、勤行精進をすすむるこころなり。しかれば、ほかには生死をいむをもて、その儀とすれども、うちには生死をいとふをもて本懐とす。
うへには潔斎を精進とすれども、したには仏法を行ずるをもて精進とす。鼕々(とうとう)たるつづみのひびきは、生死のゆめをおどろかすたよりなり。
颯々(さちさち)たるすずのこえは、長夜(ぢゃうや)のねむりをさますなかだちたり。
おほよそ諸仏菩薩の利生方便に、二種の門あり。
一には折伏門、二には摂受門なり。
摂受門
摂受門といふは、諸仏菩薩の本地化導なり。
ひと、利根にして因果にあきらかになるものには、すぐに経法をもて済度したまふ。
折伏門
折伏門といふは、聖教にくらくして因果にまどへるひとのためには、賞罰をあらはして、縁をむすばしめたまふ。
後世をしらざるともがらには、
富貴をいのらしめんがために、あゆみをはこばせ、因果をわきまへざるやからには、そのたたりをなして信心をとらしむ。
これすなはち蘋繁鼓笛(ひんばんこてき)のいささかなる縁をもて、八相成道のおほきなるもといとせんとなり。
かるがゆへに今生の寿福をいのるは、結縁のはじめなるべけれども、本壊の至極にあらざれば、神慮にかなひがたし。
後生菩提をねがふは、利物のおはりなるべけれども、ちりにまじはる本意なれば、まことのちかひにかなふべし。
和光のおこり他のことにあらず。
垂迹のこころざすところ、ひとへにこれにあり。
さきの世のたねなきものは、ねがへどもかなはざれば、いのらんによりて寿命福禄をえんこともかたし。
たとひまたおもひのごとくかなひたりとも、さかんなるものはかならずおとろふるならひなれば、ひさしくたもちがたく、ゆめまぼろしの世なれば、いつまでかたのしまん。
はかなき世間にのみ着して、後世をねがはずは、神明かなしみをふくみたまはんこと、いくそばくぞや。
ただ一向に念仏を修して菩提をもとめば、あゆみをはこび、ぬさをたむけずとも、神明えみをふくみ、よろこびをなしたまふべし。しかれば、天平勝宝元年八幡宮の御託宣にいはく、
「たとひ銅柱鉄床にはふすとも、邪幣(じゃへい)おばうくべからず。汚穢不浄の身おばきらはず。ただ謟曲不実のこころをいむ。たとひ千日のしめをかくとも、邪見のかどにはのぞむべからず。たとひ二親の重服なりといふとも、慈悲のいへには、はなるべからず」
とのたまへり。
余社(よしゃ)の神明またこれになずらへてしりぬべし。
ここで天平勝宝元年(749)の八幡宮の御託宣が引用されていますが、『諸神本懐集』6に述べられている通り、八幡宮の本地は阿弥陀如来なので、存覚においては、八幡宮の御託宣は阿弥陀如来のお告げに他ならないのです。
されば、たとひ清浄の身なりといふとも、そのこころ邪見ならば、神はうけたまふべからず。
たとひ不浄のひとなりとも、こころに慈悲あらば、かみはこれをまもりたまふべしとみへたり。
仏法を行ぜざるは、すなはち邪見のきはまりなり。
悪をつくりて悪道にいり、善を修して菩提をうといふことを、信ぜざるがゆへなり。
念仏を信ずるは、すなわち慈悲のこころなり。
わが往生をうるのみにあらず。
かへりて一切衆生をみちびきて、苦をぬき楽をあたふべきがゆへなり。
されば仏道にいりて念仏を修せんひと、もはら神慮(しんりょ)にかなふべし。
神慮にかなふならば、えんといのらずとも、現世の冥加(みゃうが)もあり、とりわきつかへずとも、その利生にはあづかるべし。
おほよそ、神明(しんめい)は、信心ありて浄土をねがふひとをよろこび、道念ありて後世(ごせ)をもとむるものをまもりたまふなり。
※【本文】は、日本思想大系〈19〉中世神道論によりましたが、読みやすさを考慮し、カタカナをひらがなに改めました。
『諸神本懐集』9につづく