『中臣祓訓解(なかとみのはらえくんげ)』は日本国が神国であると同時に仏国土であるという中世神道の立場から、「中臣祓(なかとみのはらえ)」を解説しています。
中臣祓訓解
夫れ和光垂迹の起り、国史家牒に載すと雖(いえど)も、猶(な)を遺(のこ)る所有りて、本の意(こころ)を識(し)ること靡し。
聊(いささ)か覚王の密教に託(つ)げて、略して心地の要路を示すらく而已。
蓋(けだ)し開く、中臣祓(なかとみのはらへ)は、天津祝(あまのほさ)、太祝詞(たののんとことば)、伊弉那諾尊(いざなぎのみこと)の宣命なり。
天児屋根命(あめのこやねのみこと)の諄解(じゅんかい)なり。
寔れ則ち己心清浄の儀益、大自在天の梵言、三世諸仏の方便、一切衆生の福田、心源広大の智恵、本来清浄の大教、無怖畏陀羅尼、罪障懺悔の神咒なり。
是に最勝最大の利益、無量無辺の済度、世間出世の教道、抜苦与楽の隠術なり。
天地と与(とも)に以て長く存し、日月と将(とも)にして久しく楽しからん。
所以(このゆえ)に嘗天地開闢(むかしあめつちひらきはじ)めて初め、神宝日出でます時、法界法身心王大日、無縁悪業の衆生を度せんが為に、普門方便の智恵を以て、蓮花三昧の道場に入り、大清浄願を発(おこ)し、愛愍(あいびん)の慈悲を垂れ、権化の姿を現じ、跡を閻浮提(えんぶだい)に垂れ、府璽(ふじ)を魔王に請ひて、降状の神力を施して、神光神使八荒に駅し、慈悲慈檄、十方に領(あづか)しより以降、忝く大神、外には仏教に異なる儀式を顕し、内には仏法を護る神兵と為る。
内外詞異なると雖も、化度の方便に同じく、神は則ち諸仏の魂、仏は則ち諸神の性なり。肆(かるがゆへ)に経に云はく、「仏、不二門に住して、常に神道迹を垂る」と云々。
惟(ここ)に知りぬ、諸神の通力を以て、顛倒の衆生をして、所求の願力を以て、仏道に入らしむ。
此れ則ち、善巧の方便、大慈大悲の実智、色心不二、平等利益の本願なり。
茲に因りて、現(うつつ)には即ち神祇の験を顕はし、神民の威を施し、一期の苦愁を消して、百年の栄楽を𢗜す。
当には亦五住の煩悩を離れて、即ち三界の樊籠(はんろう)を出(い)で、真如の妙理を悟りて、即ち密厳の花臺を証するかな。
凡そ此の祓は、神詞(かんことば)最極の大神咒なり。一切の願を満すことは、疾風の染(ぜん)ずるが如し。
所求円満することは、自在天の如し。
然れば則ち、十界平等の本道、諸尊大悲の法門、法尓成道(ほうにじゃうだう)の通相、諸天三宝の秘術なり。上智の前には則ち、諸尊瑜伽の教法、下愚の前には便ち、縁覚声聞の良因なり。
祓、此れを神代の上には、遂之(やらひます)と曰う。
此には波羅賦(はらへ)と云うと云々。其の実を考へ挍(かんが)ふるに、知恵の神力を以て怨敵四魔を破す。
祭文の本紀に曰はく、「三世の怨敵は、境を隔てて近からず。万人の悪念は、境を越えて遠く滅す。凡そ三災七難は、湯を以て雪を消すが如し。百毒九横は、水を以て火を消すが如し。
万悪千害は、火を以て毛を焼くが如し。
然れば則ち、悪鬼万里に別れて、七難近づきて起らず。
堅牢五帝を催し、万福近づきて来生す。
此の一度の祓、百日の難除り、百度の祭文、千日の咎捨つ」と云々。
大麻(おほぬさ)の躰相は、自性清浄の三昧耶、普現三昧の形表なり。
夫れ忍辱の袍を着(き)、正直の笏を把(と)り、三毒七難を払ひ、五濁八苦を済(すく)ふ。
祭服は則ち忍鎧なり。
群賊に拒(こば)んで、笏を把れば則ち智釼なり。衆敵を威(おど)す。
其の形直(すなほ)にして其の事捥し。
祓具、此には波羅閇都母能(はらへともの)と云ふ。
贖物は散米(さんく)・幣帛・金銀鐵人の像・弓箭・大刀・小刀の類等、皆是れ悪魔降状の神兵の具なり。
諸仏納受を垂れ、方便の神力を施し、定恵の弓箭を彎(ひ)いて、知恵の釼刀を摺(と)り、輪王釈梵東西に騁せしめ、天魔外道等南北に迯(に)ぐ。日月・五星・十二神・二十八宿、光を和げ塵に同じくして、衆生を利益せんとす。
誓願して掌を合す。
幣帛等は人、生々に貴きは、天地の恩、之に過ぎず。
又世々に忝きは、仏神の徳、之に越えず。
仍(よ)りて此の恩を報と為(す)るなり。
解除(はらへ)の事は神秘の祭文を以て、諸の罪咎を祓(はら)ひ清(きよ)むれば、即ち阿字本不生の妙理に帰して、自性精明の実智を顕す。而して諸法に於いては、浄不浄の二を出でず。故に有為は不浄の実執なり。
無為は清浄の実体なり。
是れ則ち吾が心性なり。
禅定を修すれば、其の心漸く清浄と成る。玆に因りて、謹請再拝して、七座之を宣(の)ぶれば、無明住地の煩悩の泥に穢(けが)されず。流に向ひて恭敬して、七度之に触るれば、能く池水の浪潔(いさぎよ)くして、心の源清浄なり。
肆に十煩悩の網を離れて、三有の際に纏(まつ)はること無し。此を名づけて解除と云ふ。此れ則ち滅罪生善、頓証菩提の隠術なり。
吾聞く、天神地祇を敬祭するには、潔清なるを以て懐(おもひ)を益し給ふ。
故に不浄の物は、鬼神の悪む所なり〈天霊を神と曰(い)ひ、地霊を祇と名づけ、人の魂を鬼と号(な)づく。謂はゆる天神・地祇・人鬼是れなり〉。
聖朝勅語の辞(ことば)は、「災を攘ひ福を招き、必ず幽冥に憑(よ)る。
神を敬ひ仏を尊び、清浄なるを先と為」と云々。経に曰はく「己(おの)が心念清浄なれば、諸仏此の心に在り」と云々。
清浄は即ち己心清浄の智用、寂静安楽の本性なり。不浄は便ち生死輪廻の業因、無間火城の業果なり。
故に不浄の中には、生死の穢泥太(はなは)だ深し。仏説に言(のたま)はく、「垂跡誡むる所は、諸仏の顕戒に通じ、諸神の誡めに随へり、諸仏の戒に順ず。或いは斎月祭日の精進を勤め、或は住詣して歩を運び、貴賤等若しくは一花一香を擎(ささ)げて、三宝を供養し奉り、若しくは蘋繁蘊藻を以て、神祇等に備へ祭る。
斯の如き等の者は、漸く之を以て縁と為り、内法に導き入れて、一浄土の縁を結びて、生死の海を度りて、涅槃の岸に着かしむ。
若し亦衆生善無ければ、我善を以て衆生に施し、悟無ければ、我悟を以て衆生に向ひて内証を照す」と云々。
定めて知りぬ、是れ、人、三世の諸仏の智恵を持ち、二世の所求の円満を得ること、不可説なり、々々々(不可説)なり。
見説(いふならく)、是により東の方、八十億恒河沙の世界を過ぎて、一仏土有り。
名づけて大日本国と云ふ。
『中臣祓訓解』2につづく