『坐禅三昧経』17「第四 思覚を治するの法門」5

仏教・瞑想


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『坐禅三昧経』16のつづき

問いて曰く、「如何が親里覚を除かんや」と。

答えて曰く、「応に是くの如く念ずべし。

世界に生死(しょうじ)せる中に自ら業縁もて牽(ひ)かる。

何者ぞ是れ親なるや。

何者ぞ親に非ざるや。

但(た)だ愚痴を以てするが故に、横(よこし)まに著心を生じて計りて我が親と為すのみなり。

過去世に親に非ざるをば親と為し、未来世に親に非ざるをば親と為す。

今世に是れ親なるは過去に親に非ず。

譬うるに、鳥、栖(す)みて、暮れに一樹に集まるも、晨(あした)に飛びて各(おの)おの縁に随いて去るが如し。

家属親里も亦復た是くの如し。

世界中に生じて各おの自(お)のずから心を異にす。

縁、会うが故に親にして、縁、散ずるが故に疎なり。

定実の因縁果報有る無けれど、共に相い親近す。

譬うるに、乾ける沙の手に縁りて団(まる)く握れるが如し。

縁、捉(とら)うるが故に合し、縁、放るるが故に散ず。

父母、子を養い、老ゆれば当に報を得べし。

子、懐抱養育せらるるが故に、応に報(むく)ゆべし。

若し其の意に順(したが)わば、則ち親にして、若し其の意に逆(さから)わば、是れ賊なり。

親有りて益(やく)する能(あた)わずんば、而(すなわ)ち反(かえ)って害(そこな)い、親に非ざる有りて損なう無くんば、而ち大いに益す。

人、因縁を以ての故に、而ち愛を生じ、愛の因縁の故に、而ち断ずるを更(あらた)む。

譬うるに、画師の婦女(ふにょ)の像を作りて還(ま)た自ら愛著せるが如く、此れも亦た是くの如し。

自ら染著(ぜんじゃく)を生じて、外に染著す。

過去世中、汝に親里有るも、今世、汝に復た何の作すところぞ。

汝も亦た過去の親に益する能わず。

過去の親も亦た汝を益する能わず。

両(ふた)つながら相い益さず。

空しく之れを念じて、是れを親と為すも親に非ず。

世界中、定まらずして辺無し。

阿羅漢の新たに出家して親を恋うる弟子に教うるは如く言わん。

悪人の食らえるを吐きて更に還た噉(くら)わんと欲するが如く、汝も亦た是くの如し。

汝、已に出家するを得て、何を以てか還た愛著するを欲せんや。

是の剃髪染衣(ていはつぜんえ)は、是れ解脱相なり。

汝よ、親里に著して解脱を得ざれば、還た愛の繋(け)するところと為(な)らん。

三界、無常にして、流転(るてん)して定まらず。

親の若(ごと)きは親に非ず。

今の親里と雖も、久久にして則ち滅す。

是くの如く、十方の衆生、廻転(えてん)し、親里に定むる無し。

是れ我が親に非ず。

人、死なんと欲するの時、心無く、識無し。

転ぜざるを直視し、気を閉(と)ざして命絶すること、闇坑に堕せるが如し。

是の時、親里の家属、安(いず)くに在りや。

初生の時の若きは先きの世に親に非ざるも今ま強いて和合して親と作り、当に死すべき時の若きは、復た親に非ず。

是くの如く思惟して当に親に著すべからず。

人の児、死ぬれば、一時に三処の父母、時を俱にして啼哭(ていこく)するが如きは、天上の父母妻子を誑(あざむ)き、人中も亦た誑(おう)と為(な)り、竜中の父母も亦た誑と為る。

是くの如く種種に正観して親里覚を除かん」と。

『坐禅三昧経』18につづく

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