『坐禅三昧経』18「第四 思覚を治するの法門」6

仏教・瞑想

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『坐禅三昧経』17のつづき

問いて曰く、「云何が国土覚を除かんや」と。

答えて曰く、

「行ずる者、若(も)し是の国土の豊楽安穏(ぶらくあんのん)にして諸もろの好き人多しと念ずれば、恒に国土の覚縄(かくじょう)の牽(ひ)くところと為らん。

将(まさ)に罪処の覚心を去らしめんとせば、是くの如くせよ。

若し智人有らば、応に念著すべからず。

何を以ての故なるや。

国土の種種なる過罪の焼くところの時節もて転ずるが故に。

亦た飢餓有りて、身の疲れ、極まれるが故に。

一切の国土、常には安んぜる者無し。

復た次に、老病死の苦、国として有(ゆう)せざるは無し。

是の間の身より、苦、去るも、彼の処の身に苦を得ん。

一切の国土、去るも、苦ならざるは無し。

仮に国土の安穏豊楽なる有るも、而ち結悩の心有りて苦患を生ぜん。

是れ好き国土に非ず。

能く雑悪の国土を除かば、能く結使を薄くして、心をして悩ましめず。

是れ好き国土と謂う。

一切衆生に二種の苦有り。

身苦・心苦にして、常に苦悩有り。

国土有ること無くんば、此の二つの悩無し。

復た次に、国土の大いに寒き有り、国土の大いに熱き有り、国土の飢餓する有り、国土の病多き有り、国土の賊の多き有り、国土の王法理わざる有り。

是くの如き種種なる国土の悪、心に応に著すべからず。

是くの如く生観して国土覚を除かん」と。

『坐禅三昧経』19につづく

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