『坐禅三昧経』19「第四 思覚を治するの法門」7

仏教・瞑想


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『坐禅三昧経』18のつづき

問いて曰く、「云何が不死覚を除かんや」と。

答えて曰く、「応に行ずる者に教うべし。

好き家に生まるるが若(ごと)き、種族の子にして才技力勢、人に勝れたるが若きは、一切念ずる莫かれ。

何を以ての故なるや。

一切の死せる時、老少貴賤・才技力勢を観ぜず。

是の身は是れ一切の憂悩の諸もろの因縁にして、因りて自ら少多の寿を見るなり。

安穏を得るが若きは、是れ痴人と為す。

何を以ての故なるや。

是れ憂悩と謂い、因依せるは是れ四大なり。

四大、色を造ること、四つの毒蛇の共に相応せざるが如し。

誰れぞ安穏を得る者なるや。

息を出だして入るるを期するも、是れ信ずべからず。

復た次に、人の睡(ねむ)る時、必ず覚(さ)むるを期せんと欲す。

是の事、信じ難し。

受胎より老死に至るまでの事、恒に来たる。

死を求むるの時節に『常に死せず』と言えるは、云何が信ずべけんや。

譬うるに、殺賊の刀を抜きて矢を注(つが)え、常に人を殺すを求めて、憐愍の心無きが如し。

人生世間、死の力、最も大なり。

一切、死の力に勝(まさ)れる強者無し。

過去世の第一の妙人の若(ごと)きも、能く此の死を脱する者無し。

現在も亦た大智の人の能く死に勝(まさ)れる者無し。

亦た軟語して求むるに非ず。

巧言して誑(あざむ)くも、避脱するを得べきに非ず。

亦た持戒精進して能く此の死を却(しりぞ)くるに非ず。

是れを以ての故に、当に知るべし。

人、常に危うく脆(もろ)く、怙恃(こじ)すべからず。

信じて常に我れ寿にして久しく活(い)くると計る莫かれ。

是れ諸もろの死賊、常に将に人を去らしめんとす。

老いて竟(お)わりて然る後(の)ちを待たずして、当に殺すべし。

阿羅漢の諸もろの覚もて悩むところの弟子に教うるが如く言わん。

汝よ、何を以てか世を厭(いと)いて道に入るを知らざらんや。

何を以てか此の覚を作(な)すや。

人の未だ生ぜずして便(すなわ)ち死する有り。

生ずるの時に死せる者有り。

乳餔(にゅうほ)せるの時に有り。

乳を断つの時に有り。

小児なる時に有り。

盛壮なる時に有り。

老ゆるの時に有り。

一切の時中の間、死の法界なり。

譬うるに、樹の華なる時に便ち堕(お)つる有り、果なる時に堕つる有り、未だ熟せざるの時に堕つる有るが如し。

是の故に当に知るべし。

力を勤めて精進し、安穏なる道を求むるも、大力の賊、共に住さば、信ずべからず。

此の賊、虎の如く巧みに身を覆蔵す。

是くの如き死賊、常に人を殺さんことを求む。

世界の有するところ、空しくして水泡の如し。

云何が当に時を待ちて道に入らんと言うべけんや。

何ぞ誰れか能く『汝、必ず老ゆれば道を行ずるを得べし』と證言せんや。

譬うるに、嶮岸(けんがん)の大樹の、上に大風有り、下に大水有りて、其の根土を崩すが如く、誰れか当に此の樹の久しく住するを得る者なるを信ずべけんや。

人の命も亦た是くの如し。

少(わか)き時、信ずべからず。

父は穀子の如く、母は好き田の如し。

先世の因縁罪福は雨沢の如し。

衆生は穀の如く、生死は収刈(しゅうがい)の如し。

種種なる諸もろの天子人王の智徳、天王の天を佐(たす)けて諸もろの阿須倫(あしゅりん)の軍を闘破し、種種に楽を受けて高きを極めて大いに明らかなるも、還(ま)た没して黒闇に在るが如し。

是れを以ての故に、命活の言を信ずる莫かれ。

我れ、今日、当に此れを作すべし。

明後、当に是れを作すべし。

是くの如く正観して種種に不死覚を除かん。

是くの如く先ず麁思覚を除き、却(かえ)って後ちに細思覚を除かば、心、清浄にして生きながら正道を得、一切の結使、尽き、是れより安穏なる処を得ん。

是れ、出家の果と謂う。心に自在を得て、三業は第一に清浄にして、復た受胎せず、種種なる経を読みて多聞なり。

是の時、報果を得ん。

是くの如く得る時、空しからずして魔王の軍を破し、便ち第一の勇猛(ゆうみょう)なる名称(みょうしょう)を得て、世界中の煩悩、将に去らんとするも、是れ、健と名づけず。

能く煩悩の賊を破し、三毒の火を滅し、涼楽清浄にして、涅槃の林中に安穏にして枕を高くし、種種なる禅定の根力、七たび覚すれば、清風(しょうふう)、四たび起こり、衆生の三毒の海に没せるを顧念す。

徳の妙力、是くの如きならば、乃(すなわ)ち名づけて健と為す。

是等の如き散心、当に阿那般那を念じ、六種の法を学び、諸もろの思覚を断ずべし。

是れを以ての故に、数息(すそく)をねんず」と。

※阿須倫(あしゅりん)=阿修羅(あしゅら)

『坐禅三昧経』20につづく

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