『坐禅三昧経』9 「第一 貪欲を治するの法門」2 浄観も亦た三品有り。若し禅定を得ば、即ち三相あり

仏教・瞑想

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『坐禅三昧経』8のつづき

復た次に浄観も亦た三品有り。

或いは初めて行を習し、或いは已に行を習し、或いは久しく行を習すなり。

若し初めて行を習せば、当に教うべし。

言わく、「皮を破するの想を作し、不浄を除却して、当に赤き骨人を観ずべし。

意を繁して観行し、外念あらしめず。

外念の諸縁は、念を摂して還らしむ」と。

若し已に行を習せば、当に教うべし。

言わく、「皮肉を却(しりぞ)けて尽くるを想し、頭骨を観じて、外念あらしめず。

外念の諸縁は、念を摂して還らしむ」と。

若し久しく行を習せば、当に教うべし。

言わく、「身中の一寸心もて皮肉を却け、意を五処に繫す。

頂・額・眉間・鼻端・心処、是くの如き五処に意を住して、骨を観じ、外念あらしめず。

外念の諸縁は、念を摂して還らしむ。

常に念じて心を観じ、心、出づれば制持す。

若し心の疲れ極まらば、念を所縁に住し、外を捨てて守住せよ。

譬うるに、彌候(みこう)の繫(つな)がれて柱に在り、極まりて乃(すなわ)ち住息せるが如し。

所縁は住の如く、念は縄鎖(じょうさ)の如く、心は彌候に喩(たと)う。

亦た乳母の常に嬰児(えいじ)を観じて堕落せしめざるが如し。

行ずる者の心を観ずるも、亦た是くの如し。

漸漸として心を制して、縁処に住せしむ。

若し心、久しく住さば、是れ応に禅法なるべし。

若し禅定を得ば、即ち三相あり。

〔一つには〕身体和悦にして、柔軟軽便なり。

白骨の流光、猶お白珂(びゃっか)の如し。

心、静かに住するを得ば、是れ、浄観と為す。

是の時、便ち色界の中心を得れば、是れ、『初学の禅法、色界の心を得る』と名づく。

心、応に禅法なるべくんば、即ち是れ色界法なり。

心、此の法を得ば、身は欲界に在るも、四大、極めて大いに柔軟にして快楽(けらく)す。

色沢浄潔にして、光潤和悦なり。

是れ、悦楽と謂う。

二つには、向者(さ)きの骨観の白骨相中の光明、遍(あまね)く照らして浄(きよ)き白色なり。

三つには、心、一処に住さば、是れ、浄観と名づく。

肉を除きて骨を観ずるが故に浄観と名づく。

上の如き三相、皆な自ら之れを知り、他所に見ず。

上の三品は、初めて行を習するは、先に未だ意を発さず、巳に行を習するは、三四の身、修し、久しく行を習するは、百年の身にして学す」と。

『坐禅三昧経』10につづく

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