敦煌菩薩と『鹿母経』 竺法護『盂蘭盆経』

仏教・瞑想


盂蘭盆会(うらぼんえ)の典拠(てんきょ)とされる『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』は敦煌菩薩(とんこうぼさつ)とも月氏菩薩(げっしぼさつ)とも尊称(そんしょう)された竺法護(じくほうご 239年 – 316年)の訳です。敦煌は地名、月氏は敦煌を含む東アジアから中央アジアにいた遊牧民の氏族(しぞく)です。
竺法護は敦煌で生まれ、8歳で出家し、竺高座(じくこうざ)について学んだので「竺」姓を名乗るようになりました。そのころの中国に伝えられていた大乗経典は数少なかったので、竺法護は師とともに大乗経典を求めて西域三十六ケ国を旅しました。その旅で三十六ヵ国の言語に通暁(つうぎょう)し、多くの経典を収集することができました。
中国に帰る途中、敦煌から長安にかけての沿道(えんどう)で経典の翻訳をしました。
竺法護はその後、約40年間にわたり人々を教え導き、約150部300巻の経典を漢訳しました。
当時の人々は、大乗経典が中国に伝えられたのは、ひとえに竺法護の力によるものであると讃(たた)えました。
『盂蘭盆経』には、目連尊者が餓鬼(がき)に転生してしまった母親を救うという親の恩に報いるということが説かれていますが、同じ竺法護の翻訳経典に『鹿母経(ろくもきょう)』という経典があります。
むかし、飢(う)えた鹿(しか)が二頭の子鹿を生みました。母鹿は二頭の子鹿を草むらに残し、食べ物を探していると、猟師(りょうし)が仕掛(しか)けた罠(わな)にかかってしまいました。
母鹿の悲鳴(ひめい)を聞いて、すぐに猟師がやってきました。
猟師がさっそく母鹿を殺そうとしたので、母鹿は哀願(あいがん)しました。
「私には二頭の子がいます。子どもたちはまだ目も見えず、自分たちだけでは生きていけません。ほんのしばらくの間、私を放してください。子鹿たちに水や草のある場所を教え、自分たちで生きていけるようにしたら、またここに戻ってきて、あなたに殺されましょう」
猟師は母鹿を放ちました。
母鹿は子鹿たちが自立できるように育てると、子に別れを告げました。
子鹿たちは後を追いかけましたが、母鹿は「ついて来てはいけません。この世は無常なのです。すべては変化するのです」と言い残し、猟師のところへ行ってしまいました。
母鹿は猟師に言いました。
「私は以前、罠から放たれた鹿です。あなたに殺されるために帰ってきました」
猟師は驚(おどろ)いて立ち上がりました。
「子鹿たちが自立できる時間を与えてくれた恩に報いるために帰ってきました」
母鹿の後ろに、母を追いかけてきた二頭の子鹿が見えました。
猟師は心をうたれて涙を流し、鹿の母子に謝罪しました。母子は猟師に礼を言って去っていきました。
猟師がこのことを国王に報告すると、国中のだれもが鹿たちの信義(しんぎ)と慈愛(じあい)に感じ入り、讃嘆(さんたん)しました。
国王は鹿の猟を禁止し、鹿たちが安心して出歩くことができるようになりました。
母鹿は過去世の釈迦如来、国王は舎利弗尊者、猟師は阿難尊者の過去世でした。
8歳で出家し、親許(おやもと)を離れて育った竺法護は親への憧憬が人一倍強かったのかもしれません。

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