真上に昇ったルアンパパンの太陽の日差しはオゾンホールのそれと同じくらい厳しかった。
宿の一階にはプラスチックのテーブルとイスが並び、食事できるようになっていた。
注文を取りに来た女の子が、申し訳なさそうに停電なので扇風機が使えないことを私に伝えた。
今日は学校行かないの?
「今は夏休み」
道の遠くのほうに蜃気楼が見える。
道路が濡れて見える。
本当は濡れていないのかもしれない。
でも、本当に濡れてるか否かは、あの場所に行ってみないとわからない。
実際、直接に認識するまでは、認識されるものがどういう状態であるかはまったく不確定なのだ。
蜃気楼はゆらゆらとゆらめいている。
私はそのゆらめきに同調する。
視界のゆらめきと心の波長とを近づけていく。
しばらくすると、私全体が道路の上でゆらめきはじめた。
感覚器官のすべてがゆらゆらと同調しはじめたところで、目の前に、どん、と皿が置かれた。
皿の上には、ハムや野菜がはさまれたフランスパンがのっていた。
ラオスはフランスの植民地だったことがあり、フランスパンがおいしい。
「ここ、いいですか」
といいながらも、初老の日本人が少し威圧的に私の前に座った。
「暑いねぇ」
定年まで商社で働いていたが、今はタイで年金生活しているという。
「働き盛りの男たちが非生産的な生活を送っている。だからこの国は……」
眼鏡を持ち上げて汗をふきながら批判を始めた。
それはラオスの出家僧とそれを容認している社会に対する批判であると同時に、小汚い格好で放浪していた私への批判でもあった。
経済のみに偏った価値観が不幸を生み出してきた。
経済成長に比例して自殺者が増加し、経済大国になると同時に日本はストレス大国になった。
日本では毎年、三万人以上が自殺する。
皮肉なことに経済状態が悪化している現在でも自殺者が減少する兆候はない。
一つの現象には、無限の解釈の扉が開かれている。
どの解釈を選び出すかは心が決定する。
自分の外に幸せを探し続けても見つかることはないだろう。
もし、見つかったとしたらそれは錯覚だ。
人は錯誤から離れることができなければ、苦悩をともなって生きなければならない。
豊かで満ち足りた人生は、心の探求によってのみ現実となる。
幸せとは心の状態なのだから。