南インドを流れる水路を、船はゆっくりと進んでいく。
ところどころには木々が途切れた場所があり、民家や学校があった。
船を見ると、子供たちは手を振った。
「ワーオ!」
近くにいたアメリカ人のヒッピーが大袈裟に感動してみせた。
おだやかな、やさしい風景だった。
子供たちは、手を振りながら何か叫んでいる。
アメリカ人は、微笑みながら軽く手を振り返した。
子どもたちは叫びながら、どこまでも走ってついてくる。
「ワンペン、ワンペン、ワンペン」
私たちは、子供たちがただ手を振っていたのではないことに、ようやく気がついた。
子どもたちは必死だ。
彼は怪訝そうな顔で私に言った。
「なんて言ってるの?」
アメリカ人が日本人の私に英語を尋ねるのは奇妙な話だが、インド人の英語には独特の訛りがあるのでネイティブの人にはかえって聞きとりにくいことがあるらしい。
私はボールペンを手に取り言った。ペン一本ちょうだい。
「あー、1ペンか。ハハハ」
興醒め?
「ああ、興醒めだね」
急に川幅が広がり、視界が一気に広がった。
「ワーオ!」
アメリカ人が、歓声を上げた。
その驚きは、決して大袈裟ではなかった。
太古の光景が、圧倒的な規模で広がっているのだ。
真っ青な大空の下、広大な陸地全体に、ヤシだけが何百万本も密生している。
恐竜が飛びだしてきても、おかしくないと思えるような太古の風景なのだ。
わさわさと風に揺れる島中のヤシの木が、まるで意志を持って何かを主張しているかのようだった。
ヤシの運動は多分、何億年も前から変わっていないのだろう。
それはもちろんヤシだけではない
あらゆる存在は、果てしない運動を繰り返している。
目の前にある存在を一度、切断してみるべきだ。
その存在が何であれ、一が二の断片になる。
その一方をもう一度、分断する。
もう一度。
何度も繰り返すうち、肉眼では見えないほど細かくなる。
電子顕微鏡を覗いて、さらに切断を繰り返す。
物質が、その化学的性質を保って存在しうる最小の構成単位にまで、分断し続ける。
分子。
分子は原子の集合体だ。
原子は、原子核と電子からなるが、電子は動きまわっていて、実はほとんどが空間なのだ。
では、原子核が物質の最小単位なのかというと、そうではない。
原子核は陽子、中性子から構成される。
では、陽子、或いは中性子が物質の最小かというと、それらもまた、さらに小さな素粒子の集合体だという。
それらはもう既に物質とは呼べない。
それらは波だ。
物質とは、実体のない高密度の波動でしかない。
どうやっても物質の本体を取り出すことはできないのだ。。
なぜならば、物質に実体は無いからだ。
そして、また心も実体の無い波に過ぎない。
表層と深層の波を静めることができたとき、微細にして巨大な原初的波動があらわれる。
原初の大いなる波は、あなたの身体をつらぬき、すべての空間へと解き放つ。