インド ラージギールにて
ラージギールは仏典に出てくる王舎城だ。カビくさい安宿のベッドに荷物を置くと外に出た。 この町は埃っぽかった。 認識されるもの、すべてが埃をかぶっていた。 十字路の角のチャイ屋の前で、プラスチックの椅子に座った。 老人は何も言わず、しかめ面のまま人差し指を立てて見せた。 私はうなずいた。 ひん曲がったアルミ鍋から、コップに注がれる甘いチャイ。 熱いコップをのぞき込むとミルクが膜を張っていた。 夕暮れのこの町は、幼い頃に見た輪郭がはっきりしない夢の中の光景に似ている。 あまり健康的ではない ...
インド ラージギールへ
荷物と一緒にバスの屋根によじ登った。 屋根の上にいる私を振り落とそうとするようにバスは急発進した。 私は凍り付くような風にこわばった指で、荷台の冷たい鉄パイプを握り続けていた。 私は何度かインドに来て、この路線を走るバスに六度乗った。 道は直線だった。 制限速度は無い。 あるのかもしれないが、あったとしても誰も守ってはいないだろう。 風圧と飛んでくる砂塵で目を見開いてはいられない。わずかな視界には奇妙に曲がりくねったバスがいくつも流れ去る。 何台ものバスが路肩に吹っ飛んだまま放置されてい ...
インド ヴァラナシにて 4
私は、その日もガンガーのガートに座っていた。 ガートとは川岸に設置されている階段のことで、洗濯や沐浴の場となっている。 河は、昨日と同じように流れていた。 おばさんたちが、隣のガートで洗濯している。色鮮やかな原色のサリーが眩しい。 そのガートには、灯油コンロを置いただけの簡単なチャイ屋が出ていた。 チャイ屋は、いつものように熱過ぎるチャイを黙って手渡した。 「ここ、空いてますー?」 見上げると、日本人の女の人が、私のとなりを指さしたまま立っていた。 彼女は、自分がここまでしてきた旅の話を始 ...
インド ヴァラナシにて 3
視界の隅に人影が映った。 振り返ると同時に、異形の男が飛びかかってきた。 見開いた眼球は、鮮やかな動脈血であふれている。眼球が血の色に腫れ上がり、今にもこぼれ落ちそうだ。 盲目の男は私の肩口にしがみついて、唾を飛ばしながら叫んでいる! 「バクシーシ!バクシーシ!」 彼の母らしき老婆が私に男を押しつけながら、泣きそうな顔で叫んでいる! 「バクシーシ!バクシーシ!」 これほど激しい乞食は初めてだった。 私はその男と共に押され、路地の壁に押しつけられた。 「バクシーシ!バクシーシ!」 男は母らし ...
インド ヴァラナシにて 2
祠の横に座っていた男と目があった。瞳孔が開きっぱなしの黄ばんだ眼球。 男は立ち上がった。 妙に痩せているのは覚醒剤かヘロインか。 男がひょこひょこと歩いてきた。ここの住民の大半は不健康に見える。 男は小汚い顔を容赦なく近づけた。男の顔が近すぎて視界がぼやけた。 男が今、肉眼で外界を見ていないのはあきらかだ。 男は妙にこなれた日本語と、ヤニと唾液と得体の知れないものが混ざって発酵したような臭いを発した。 「バラナシ来たの初めて?ガンジャ?チャラース?」 男はしつこかった。路地を曲がり早足で ...
インド ヴァラナシにて 1
南へ向かってきたガンジス河の流れが、ヴァラナシでは北へ向かっていく。 インドの人々は、単純に大地の高低からこのようなことが起こっているとは考えなかった。 ここにはただならぬ神の力が働いており、ここで死ぬ者は解脱するといわれている。 ヴァラナシの安宿街は、小汚い建築物が密集している上、道が細いので日当たりが悪い。昼間でも薄暗く、じめじめしている不健康な場所だ。 建物がどれも似ているので、何度来ても一度は道に迷う。 路地を右に曲がると前方に小さな祠が見えた。 ここからでも内部の神像がシヴァ神であ ...
インド サンチーにて
私はバスに揺られていた。 バスといっても、バンを少しだけ大きくしたような大きさの古いバスだ。 キズとほこりで曇った窓の外には、かわり映えしないインドの風景がぼんやりと続いている。 代わり映えしない交差点でバスが止まった。 小雨の中、降ろされた。 辺りを見回したが、地名が記されたものが何も見あたらない。 ここは本当にサンチーなのか? 男はニコリともせず、小首をかしげてバスの扉を閉めた。 車もないし、誰も歩いていない。 振り返ると、小さなバスがますます小さく遠ざかっていく。 私は丘に向か ...
インド ブッダガヤーにて 2
普段、三千人しかいない村にダライラマ法王からカーラチャクラの灌頂を受けるために世界中から三万人が集まった。 この時のカーラチャクラの大灌頂は、もっとも歴史のある転生活仏であるカルマパと、ニンマ派の法王ペノール・リンポチェも共に受けられたので、通常は省略される部分も特別に行われた。 三万人もの人々が、この御二人のおかげで、この恩恵にあずかることができた。 最後の日、砂曼荼羅を拝見できたのは日が暮れた後だった。 今夜の列車で、私はカルカッタに向かうことになっていた。 世話になった人たちに礼を言って ...
インド ブッダガヤーにて 1
暗闇の中、無機質な夜行列車に揺られて、ガヤー駅に到着した。 闇夜だった。 暗いうちに移動するのは危険だ。 夜明けまで待たなければならない。 待合のスペースは、多くのインド人と二頭の野良牛で埋め尽くされていた。 隙間を見つけ、バックパックを枕に横になった。 うとうとしていると、いきなり近くでじゃばじゃばと水の音がした。 私は飛び起きた。 すぐ近くで野良牛が小便をし続けていた。 尿がこちらに流れてくる。 私は急いでバックパックを持ち上げ、そこから逃げた。 尿は、近くで寝ていたおじいさん ...
インド タージマハールにて
静寂の暗闇の中、月明かりを浴びて、淡く白光を放つ巨大な墓。 タージマハールは霧に包まれ、幻想的な情景を構成していた。 写真では何度も目にしていたが、実物は写真とは違う。 目の前の白い墓は、写真には写らない不気味な静寂に満ちていた。 王は死んだ后のために、幻想的なまでの美しさを持つこの墓を建立した。 そして、二度とこれと同じものが建てられないように、建築に関わったすべての職人の腕を切り落としてしまったのだという。 心ある者は、慈愛と愛着をはき違えてはいけない。 愛着は、所有欲や独占欲、その他 ...
インド アグラーにて
夜明け前の駅前でリクシャーに乗った。 険しい顔の老人は何も言わずにペダルを踏み込んだ。 ぽつり、ぽつりと灯る街灯が、電柱の周りだけを黄色く照らしている。 わずかな灯りに小さな羽虫が群がっていた。 街灯から少し離れるとすぐに暗闇だ。 真っ黒な暗闇と、黄色い灯りの中に、出たり入ったりしながら道を進んでいく。 暗闇。灯り。暗闇。灯り。暗闇。灯り……。 老人は無口だった。 何も言わなかったが、時々振り返っては私の顔を盗み見た。 老人の顔がどんな顔なのか、怒りに満ちた顔か、それとも笑顔なのか、闇 ...
インドネシア ボルブドゥールにて
夜明け前、ボルブドゥールの石段を登った。 この遺跡は世界三大仏教遺跡の中で、唯一の密教遺跡だ。 回廊をまわり、少しずつ上に登って行く。 回廊には、釈迦如来の生涯と華厳経の入法界品に説かれている善財童子の物語が浮き彫りにされている。 善哉童子は、仏陀に成るために旅に出た。旅先で出会う偉大なる菩薩たちから、教えを授けていただき、童子は修行を続けた。 修行の最終地に教え導かれた時、童子は、自分の外側にばかり仏性を求め、旅を続けていたが、自分の内側に仏性があることを悟った。 巡礼者は回廊を巡り、少し ...
インドネシア バリにて 4
チベット文化圏に残る曼荼羅は円形が多いのに対し、日本密教の曼荼羅は方形が多く伝承されている。 それでも、円形、方形のいずれの曼荼羅も周囲は縁で覆われている。 それは多くの場合、曼荼羅は全宇宙を構造的に示しているからである。 ところがバリ島の曼荼羅は、下絵が曼荼羅の外側へまで連続しており、キャンバスの外側の世界にまで続く無限の広がりを想像させる。 コノハムシの如くに木の葉に擬態したバリの神たちは、ジャングルに密生する植物たちの上で同心円状に行儀良く並んでいる。 一番外側の縁は一応ぼんやりと色分け ...
インドネシア バリにて 3
バリの田は、今まで見たどこの田よりも美しかった。 なだらかな起伏に段々に設けられた田のところどころに椰子が生えている。 機械で植えられた日本の田のように均一な平面ではなく、表面に微妙なやわらかさがある。 同じ手植えでも、ネパールの田とも違う。ネパールの田は人々の必死さがこもっている。お気楽さがないのだ。 私は、お気楽な田んぼの明るいあぜ道を歩いていた。 虫たちを踏まないように、すり足で進んでいく。 一歩進むたびに、さーっ、と、バッタが左右に跳び出していく。 あぜ道を抜け出して、舗装された道 ...
インドネシア バリにて 2
ウブドは芸術の村である。 「ジャングルに行けば、いつでも果物があり、河に行けば、いつでも魚がいるから、食べ物のためにあくせく働く必要がなかった。村中みんなが、暇つぶしに絵を描いたりしていたんだよ」 雨宿りのために偶然、入り込んだ画廊の主人は話し好きな人だった。 「村中のみんなが絵を描いたり、彫刻をしたりしていたから、欧米人が島に入ってくる前は、アートが金になるなんて、誰も考えていなかったんだ」 そのことは四十代の主人が生まれる以前の話であるが、主人は実際、その時代を生き抜いてきた老人のようにそのこと ...
インドネシア バリにて 1
バリはテーマパークのように観光化された島だ。 めぼしい宗教施設や行事はほとんど観光化されていて、外国人観光客から外貨を得るためのショーになっている。 南国らしい巨大な葉の上に、焼き豚と米をのせた料理を出す地元の食堂で、向いに座っていたマデさんという男性が話しかけてきた。 これは日本の寺院にも言えることだが、という前置きを付けて、寺院のテーマパーク化をどう思うかとマデさんにに尋ねてみた。 「わからないよー」 いかにも南国らしい答えだ。 食堂で話しているうちに「テーマパークではない本当のバリを見せ ...
ラオス ルアンパバーンにて 2
真上に昇ったルアンパパンの太陽の日差しはオゾンホールのそれと同じくらい厳しかった。 宿の一階にはプラスチックのテーブルとイスが並び、食事できるようになっていた。 注文を取りに来た女の子が、申し訳なさそうに停電なので扇風機が使えないことを私に伝えた。 今日は学校行かないの? 「今は夏休み」 道の遠くのほうに蜃気楼が見える。 道路が濡れて見える。 本当は濡れていないのかもしれない。 でも、本当に濡れてるか否かは、あの場所に行ってみないとわからない。 実際、直接に認識するまでは、認識されるもの ...
ラオス ルアンパバーンにて 1
西の空がまだ暗い時間に私は、外に出た。 オレンジ色の衣を着た僧侶のとてつもなく長い行列が、いつか見た夢のようでまるで現実味のない朝だった。 ここルアンパパンはラオスの小さな田舎町だが、町全体が世界遺産に登録されている珍しいところだ。 私は夢見心地で僧侶の鉄鉢に食事を施した。 僧侶の唱えるふわふわとした経文が幻想的に聞こえる。 私はこの町の中心近くにある小さな丘へと歩いて行った。 寝起きの階段はつらいかったが、丘の上から見る朝の町は絶景だった。 碁盤の目のような路地にはびっしりとオレンジ色 ...
ミヤンマー チェントンにて
ミヤンマー北部にチェントンという外国人に対しては非解放となっていた小さな町がある。 チェントン出身の友人から何度も「チェントンはいいところだから一緒に行こう」と誘われていたのだが、私はチェントンに行くことにずっと躊躇していた。実際に言った人たちはみんな口を揃えて、「これといって見るものがない」と言っていたからだ。 タチレクというタイと国境を接した町からタクシーをチャーターして舗装してない道を揺られていく。 タチレク以外からは空路でしか入域が許可されていない。 何度か検問で止められながら、砂煙を巻 ...
ミヤンマー チャイティヨーパゴダにて
世界は、霧で覆われていた。 霧の中にうっすらと寺院が見える。 境内に入る前に、蓮の花と、線香と、ろうそくとを買った。 山の上は高台になっており、大理石で舗装されていた。 霧の中に、仏塔が見える。 崖にせりだした大岩の端にちょこんと乗っている仏塔が今にもずり落ちそうだ。 いかにも不安定に見えるが中に納められている釈迦如来の遺髪が絶妙なバランスを取っているのだという。 昔、ある行者が釈迦如来の遺髪を自分の束ねた髪の中に隠し持っていた。 行者は国王に、自分の頭と同じ形をした丸岩を探すように頼ん ...