タイ ピサヌロークにて
私は髪の毛だけではなく、眉毛も剃り落としていた。 タイの僧侶は皆そうなのだ。 ミヤンマーと戦争を繰り返していた昔、信仰心厚い両国に、たびたび僧形のスパイが送り込まれてきた。 タイやミヤンマーなどの上座部仏教の国では、日本では考えられないほど僧が敬われている。 僧に失礼があってはならないと誰もが思っているから、僧形のスパイを見つけ出すのは困難なのだ。 敵国のスパイと区別するために、タイの僧侶は眉毛も剃ることになった。 眉剃りは、そのとき以来の伝統だという。 私は毎朝6時になると、先輩僧たちの ...
タイ パンガン島にて 2
その日、私は完全な調和の中にあった。 私は全体であり、全体の中で歩いていた。 海沿いの強烈日射しが、焼けたアスファルトにくっきりと私の輪郭を照らし出している。 海面の小さな波の一つ一つが銀色に輝き、瞬間毎に生滅を繰り返していた。 それがずーっと、水平線まで続いている。 その上に広がる大空は、水色だ。 タイ語で「空色(シーファー)」といえば、それは「水色」のことである。 タイで真っ青な空というのは見たことがない。タイの空はいつも水色なのだ。 だだっ広い空を眺めながら、通りを歩いていく。 ...
タイ アユタヤにて
遠くでカエルが、大声で鳴いている。 耳元では蚊がうなっている。 私は、蒸し暑い蚊帳の中から這い出た。 友人は別の蚊帳の中でいびきをたてている。 この友人が田んぼの真ん中にあるこの実家へと招いてくれたのだった。 数十匹の蚊が私に吸いついている。 インディアンの拷問に、一晩、森の木に縛り付けておく、というものがあるそうだ。全身を蚊に吸われ、翌朝にはゴムまりのようになって死んでいるのだという。 蚊帳がなければ私たちはまちがなくゴムまりになるだろう。 蚊の数が尋常ではないのでどうしても蚊帳の中に ...
タイ パンガン島にて 1
あたたかい遠浅の海は、どこまで歩いて行っても、ひざより深くならず、やわらかい藻が足にからみついた。 「だから、人が来ないんだよ」 バンガローを経営しているおばさんが、砂浜から言った。 人が来なくて波の音がしない海は、瞑想修行に良い。 パンガン島はヒッピーの島として有名だが、ヒッピーは波が高く、パーティーが行われる東のビーチに集まる。 浅く波が無く、泳ぐことができない西の宿には、ゆっくり読書するような年配の欧米人しか来なかった。 「ここは何も無いけど、ゆっくりするにはいい所だよ」 椰子の木が茂る ...
タイ バンコクにて
バスは、長い間、停まっていた。 南国の夜のなまぬるい空気が、開け放された窓からぬるりと侵入し、肌にまとわりつく。 乗客がまばらなバスの中にはタイの演歌が控えめな音で流れていた。 テープに合わせて陽気な運転手が、体をくねらせながら歌っている。 バスがゆっくりと走り出しては、また止まった。 乗務員のおばさんは眠そうな目をこすりながら窓から首を出した。 「事故だね」 運転手が、演歌のメロディーにのせて「知ってるよ」と答えた。 突然、後ろから、青いサイレンが猛スピードで追い越して ...
タイ スコータイ マハタート寺にて
その空間は微細な美に包まれていた。
太陽は圧倒的に光り輝き、蓮池に浮かぶ寺院は、そのままの姿を水面に落としていた。
蓮が乱れ咲く水面を境に、世界が上下に同じだけの広がりを持っている。
あめんぼが創り出す水紋が、世界はぶよぶよとした幻影であることを伝えていた。
タイ北部・スコータイにあるマハタート寺。