戸口に立つと、血の臭いがした。
扉を開くと、戸口を塞ぐように、血まみれの自動車が停めてあった。つい先ほど人間をひき殺してきたかのような凄惨な状態だ。
向かいの家の前で、男が山羊を押さえつけている。
子供たちが見守る中、斧が振り下ろされる。
切れ味の悪い斧は、山羊の首の半分あたりまでくい込んだだけだった。
山羊は血を吹き出しながら、何とも悲痛なうめき声をしぼりあげている。
それを見て無邪気にはしゃいでいる子どもたち。
男は首が落ちるまで、何度も斧を振り下ろし、その度に、山羊は眼球を剥き出し、悲鳴をあげた。
毎年、ダサイン祭の時期が来ると、山羊や鶏の首が大量に切り落とされる。
痙攣する胴体から吹き出す血液は、家の戸口や自動車のナンバープレートや車輪などにかけられる。
神への生け贄として、生き物たちが殺されてゆく。
しかし、実のところ、神は山羊や鶏の血など、必要としてはいない。
シヴァも、カーリーも、他のヒンドゥーのすべての神々も、ヒンドゥー教徒が考えるように「根本原理」であるならば、神はそれを必要としていない。
それはそれ自体で完全であり、自分の外側に何らかのものを求めるようなことはありえないからだ。
もし、生け贄を必要とする神がいるならば、それは、概念的思考が生み出した妄想であり、煩悩にすぎない。
それが、人々を縛り上げ、一切の生きる者たちを不幸にしている。
このヒンドゥー教徒の祭りの日、チベット仏教の寺院では法会が行われる。
それは、ヒンドゥー教徒たちが積んだ殺生の悪業を浄化する法会だ。
私は、寺院に続く細い砂利道に入って行った。