山々に囲まれた谷間の斜面に削り出された道路上で、バスは長い間、停まったままだった。
車内ではイスラエル人たちが、いつ走り出すのかと騒ぎ続けている。
一時間ほど待たされた後、乗客は全員、降ろされた。
預けていた自分の荷物を渡され、「歩け」とだけ言われた。
斜面に沿って湾曲した道路に、ポカラへ向かうバスが十数台連なっていた。
私は重い荷物を背負って、連なるバスの傍を歩いて行く。
日射しが強かったが遮るものが何もなかった。
長い間、上り坂が続く。
途中で座り込んでいる者もいる。
強力な太陽光が私に、アスファルトにくっきりと浮かぶ影しか見せないようにしていた。
先頭のバスまで歩き着いたとき、バスの周辺は、道路に倒れ込む外国人で埋め尽くされていた。
長時間、強い日射しの中で歩かされ、ほとんどの旅人が衰弱していた。
先頭バスの先には、道は続いていなかった。道路は、深い谷底へと流れ落ちていたのだ。
私は、バックパックからタオルを出し、熱くなった頭に被せると道に座り込んだ。
アスファルトは熱のかたまりになっていた。
土砂崩れは、人力で開通できる規模ではなかったが、それでもネパールの人足たちは、スコップで土砂を掘っていた。
時計は2時を指していた。
ポカラまで6時間半で到着する予定だったが、カトマンドゥを出てから7時間が経っていた。
私が持っていた6時間半分の水はすでに飲み干されていた。
脱水症状に陥ってる者も何人か出てきた。
考えても仕方がない場面での考察は、無駄な疲弊を招くだけだ。
私は座ったまま意識を内側へ向けた。
一時間近く待たされたあと、肩を叩かれて、私は立ち上がった。
皆、歩いて土砂の上を渡り始めていた。
道が崩れた後に人が歩けるほどの道ができている。
崩れた土砂の上にできたばかりの道は10メートルくらいしかなかった。
そこからまた、熱せられたアスファルトの上を長い間、歩いた。
肩にくい込んだバックパックが時の流れを遅くしていた。
坂の下で待っていた別のバスにたどりつき、水と昼食を口にしたのは日が暮れてからだった。
私が到着した後、しばらくして、バスにたどりついた一人旅の女性はほっとしたのか、バスの乗降口で泣き崩れた。
前方のバスから順々に走り出した。皆、早く宿で横になりたがっていた。
しかし、私の乗ったバスは出発しなかった。
三十分ほど待たされた後、もう一度、全員がバスから降ろされた。
先頭のバスが村人をひき殺したのだという。
バスの長い列が闇の中へ続いている。
一時間ほど食堂で待っていたが、状況が変わらなかったので、先頭のバスまで歩いて行った。
暗闇の中に揺れる炎があった。
村人たちが十人くらい座り込んでいる。その真ん中、道の真ん中に、跳ねられたままの姿勢で、老婆がうつぶせに倒れていた。
ネパールに旅行者が来るようになってから、静かな村はバスに踏みにじられてきた。
早朝から夜中まで排気ガスをまき散らされ、家畜をひき殺されることも、一度や二度ではないという。
バスの通り道に座り込んで遺体を移動させないことは、村人たちのささやかな抗議活動なのだ。
不自然な格好をした遺体の腹の辺りに、二本のろうそくが亡くなった老婆の心を照らすように捧げられている。
私は手を合わせ、老婆の良き来世を祈った。
顔を上げると、焚き火にあたっていた老人と目が合った。
老人は今にも泣き出しそうな何とも言えない顔でうなずいてみせた。
坂の下から誰かが騒ぎながら、闇の中を足早に歩いてくる。
灯りに照らし出されたのは、大柄なイスラエル人たちだった。
「邪魔だ」
「死体をどけろ!」
「悪いのは、先頭のバスだけだろう」
「俺たちには関係ない」
イスラエル人たちは口々に村人たちにけしかけた。
英語を理解できない村人たちは、その勢いに圧倒され、おろおろするばかりだった。
人が同情や共感よりも自己主張を選び取るならば、礼拝などは無意味であり、そこには神の救いなどありえない。
絶対に到ったとき、人は全宇宙と共感し、神の愛を知る。
そこには主張すべき自己も、踏みにじられる他者も存在しない。
あるのは、無限の慈悲だ。