ラサは、チベット語で「神の地」という意味である。
この国の首都であり聖地である。人々は何ヶ月もかけてチベット中から巡礼にくる。
荒れた道を、尺取り虫の如く五体投地を繰り返しながらやってくる人たちもいる。
大昭寺の前に人だかりができていた。
その中心に骨と皮だけのひからびた腕を見せている巡礼者がいる。
肘の関節を紐できつく縛ったまま、東のカム地方からここまで五体投地を繰り返して来たのだという。
完全に壊死した右腕はすでにミイラ化している。
ラサに到着する前に乾燥して折れてしまわないようにバターを塗りながら来たのだそうだ。
巡礼者はその腕を燃やして大昭寺の釈迦如来に差し上げるのだと言った。如来はどう思われるのだろうか。
うす暗くなっても大昭寺の門前では何人もの人々が五体投地を繰り返していた。
チベット人にとって、ラサは中国共産党に侵略された今も「神の地」であることに変わりはない。
しかし、「神の地」の町並みは来るたびに変わっていく。
チベット建築は次々に破壊され、味気ないコンクリートの箱が次々に建てられていく。
それが侵略者のいう「開発」だ。
仏教を否定するために、チベットの小学生に生き物を殺してくるという宿題が出されたという。
大きな生き物の死体を持ってきた生徒は高得点が与えられ、みんなの前で褒められたそうだ。
「仏教では、殺生は悪い行いであるとされています。悪い行いをすれば、それが原因となって、悪い結果が生じるとされています。しかし、みなさんは生き物を殺したのに、先生に褒められました。ね、仏教はまちがっているでしょう」
この鬼畜の如き教育は、侵略者のいう「解放」の一端でしかない。
辺りは、すっかり闇に包まれていたが、西の空には遅れて来る夕暮れの色彩が、まだうっすらと残っていた。
この時間になると「開発」されてしまった通りに、中国人が経営する火鍋や、ウイグル人が経営する山羊や羊肉の串焼きなどの屋台が並びはじめる。
私は、同じ大部屋にいる旅人に誘われて串焼きの屋台に座っていた。
ラサの夜風は夏でも冷たかった。
旅人はラサ・ビールで、私はぬるいお茶で、「神の地」に来ることができたことを乾杯した。
旅人は、フェリーで上海から中国に入り、二ヶ月かけてラサまで来たのだと言った。
はじめての海外旅行だという彼は、今日までものすごい大冒険をしてきたかのように、目を輝かせながらこれまでの話を始めた。
どこかおどおどした店員が、私たちの目の前に無造作に皿を置いていった。
串焼きは何日も繰り返し焼かれたようで、すっかり油が抜けており、ぱさついているのにしっかりケモノ臭かった。
山羊の頭はどこが脳で、どこが眼球なのか、区別がつかないほど焦げている。
旅人の話が北京に至ったとき時、子連れの乞食が喜捨を請いに来た。
金を受け取ると、乞食は去って行った。
旅人は、北京での出来事の続きを始めたが、すぐに乞食の子供たちが駆け寄ってきた。
私は子供たち一人ずつに少しずつ渡した。すると子供たちは「少ない」と文句を言い出した。
さきほどの子連れがもらった金額を子供たちに言ったらしい。
私は金の代わりにぱさぱさの串焼きを三本渡した。
子供たちは、串を奪い合いながら、駆けだしていった。
旅人は、話し好きな人だった。
話が五台山にさしかかった時、弦楽器をかき鳴らしながら男が大声で歌いながらがやってきた。
旅人は無視して話を続けようとしたが、話し声をかき消すように男は大声で歌った。
旅人が、それよりも大きな声で話すと、男はさらに大きな声を出した。
私は小銭を渡した。
男は、あっさりと歌うのをやめて去っていった。
旅人が無事、ラサに到着したのは夜更けのことだった。
旅人は、すっかり酔っていた。
黙ったまま、うつろな目でグラスを眺めていた。
私は、ぼこぼこに変形したヤカンからお茶を注いだ。
「取り返しのつかないことを、やってしまった」
旅人は、突然、告白を始めた。
それは確かに「取り返しのつかないこと」だった。
その罪の償いはしたし、相手方も、もう十分だと言ってくれたのだという。
それでも罪悪感に苦しめられ、日本から逃げ出して、旅に逃げ込んだ。
しかし、どこに行ってもそのことが頭から離れず、いつのまにか、旅人は巡礼者となっていた。
仏跡から仏跡へと移動し、各地の御本尊へ懺悔を繰り返してきたのだという。
「罪は、償えたのですかね?」
罪は償えた。
罪はもう存在しない。
旅人は、そんな言葉を期待しているようだった。
しかし、それは単なる気休めだ。
旅人が、今も現にそうやって苦しんでいるということは、罪業の潜勢力が、今も力を持ち続けているということの証しである。
滅罪の力を自分の外に求め続ける限り、その苦悩から逃れることはできない。
自分に偽ることなく、記憶を深層領域から注意深く、そのすべてを取り出し、反省と決意と加持力によって丁寧に解体してゆく。
深く後悔し、二度と繰り返さないという決意を執着せずに執持すること。
そして、そのすべてを受け入れなければならない。
あなた自身が光となれば、問題はそれ自身の力で解決し、経験は自ずから解脱する。