『先代旧事本紀』と『古事記』の序文偽書説とその価値

先代旧事本紀

『先代旧事本紀』

『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ or さきのよのふることのもとつふみ)』は、
中世までは、『日本書紀』についで『古事記』よりも重要視されてました。
現在は、偽書とされていますが、偽書とされる理由の一つが序文にあります。

『先代旧事本紀』の序文と偽書説

先代旧事本紀ノ序 大臣蘇我馬子宿祢等が勅を承りて修撰まつる。
夫、先代旧事本紀は聖徳太子の且て撰所なり。

上は『先代旧事本紀』の序文です。

蘇我馬子が記した序文に、聖徳太子と蘇我馬子が中心となり著述・編集されたとあります。

そのため、中世においては『古事記』よりも古い史書として重要視されました。

しかし、『先代旧事本紀』の本文は全体に『古事記』(712)や『日本書紀』(720)、『古語拾遺』(807)からの引用による継ぎはぎにより構成されているため、蘇我馬子(?-626)の序文は偽書とされています。

また、『続日本紀』の承平年間(931-938)に引用される『日本紀私記』に『先代旧事本紀』への言及があることから、『先代旧事本紀』の成立は平安時代初期とされています。

しかし、そうであっても『先代旧事本紀』が重要な史書であることは揺るがないと思われます。この記事では序文偽書説を中心にそのことについて記します。

『古事記』の序文

序文偽書説は『古事記』にもあります。
参考に『古事記』の序文をあげておきます。

 臣安萬侶(やすまろ)言(もう)す。夫れ混元(こんげん)既に凝りて、氣象未だ效(あらわ)れず。名も無く爲(わざ)も無し。誰か其の形を知らん。然れども乾坤(けんこん)初めて分れて、参神(さんしん)造化の首と作り、陰陽斯(ここ)に開けて、二霊(にれい)群品(ぐんぴん)の祖(おや)と爲りき。所以(このゆえ)に幽顯(ゆうけん)に出入して、日月目を洗うに彰(あらわ)れ、海水に浮沈して神祇身を滌(すす)ぐに呈(あらわ)れき。故、太素(たいそ)は杳冥(ようめい)なれども、本教に因(よ)りて土を孕(はら)み嶋を産みし時を識れり。元始は綿(めんばく)なれども、先聖に頼りて神を生み人を立てし世を察りぬ。寔(まこと)に知る、鏡を懸け珠を吐きて百王相續し、釼(つるぎ)を喫(か)み蛇(おろち)を切りて、萬神蕃息(はんそく)せしことを。安(やす)の河に議(はか)りて天の下を平らげ、小濱(おばま)に論(あげつら)いて国土を清めき。是を以(も)ちて番(ほ)の仁岐(ににぎ)の命、初めて高千(たかちほ)の嶺に降り、神倭(かむやまと)の天皇、秋津嶋を經歴したまいき。化熊(かゆう)爪を出して、天釼を高倉(たかくらじ)に獲、生尾(しょうび)徑(みち)を遮りて、大烏吉野に導きき。舞を列ね賊を攘(はら)い、歌を聞き仇を伏えたまいき。即ち夢に覚りて神祇を敬いたまいき。所以(このゆえ)に賢后と称す。烟(けむり)を望みて黎元(れいげん)を撫(な)でたまいき。今に聖帝と伝う。境を定め邦を開き、近つ淡海(おうみ)に制め、姓を正し氏を撰(えら)びて、遠き飛鳥(あすか)に勒(おさ)めたまいき。歩驟(ほしゅう)各(おのおの)異り、文質同じくあらずと雖も、古を稽(かんがえ)て風猷(ふうゆう)を既に頽(すた)れたるに繩(ただ)し、今に照らして典教を絶えんとするに補わずということ莫し。

飛鳥の清原(きよみはら)の大宮に大八洲(おおやしま)御(しら)しめしし天皇の御世に曁(いた)りて、濳龍(せんりょう)元を體し、雷(せんらい)期に応じき。夢の歌を聞きて業を纂(つ)がんことを相(おも)い、夜の水(かわ)に投(いた)りて基(もとい)を承(う)けんことを知りたまいき。然れども天の時未だ臻(いた)らずして南山に蝉蛻(せんぜい)し、人事共洽(そなわ)りて東国に虎歩したまいき。皇輿(こうよ)忽(たちま)ちに駕(が)して山川を浚え渡り、六師(りくし)雷のごとく震え、三軍電(いなづま)のごとく逝きき。杖矛(じょうぼう)威を挙げ、猛士烟(けむり)のごとく起り、絳旗(こうき)兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けぬ。未だ浹辰(しょうしん)を移さずして気自ずから清し。乃ち牛を放ち馬を息(いこ)え、愷悌(がいてい)して華夏に歸り、旌(はた)を巻き戈をおさめ、詠(ぶえい)して都邑に停まりたまいき。歳(ほし)大梁に次(やど)り、月、侠鍾(きょうしょう)に踵(あた)り、清原(きよみはら)の大宮に昇りて天つ位に即きたまいき。道は軒后(けんこう)に軼(す)ぎ、徳は周王に跨えたまいき。乾符(けんぷ)を握(と)りて六合を摠(す)べ、天統を得て八荒を包(か)ねたまいき。二気の正しきに乘り、五行の序を斎え、神理を設けて俗を奬め、英風を敷きて国を弘(おさ)めたまいき。重加(しかのみにあら)ず智海は浩瀚(こうかん)として潭く上古を探り、心鏡は煌(いこう)として明らかに先代を覩(み)たまいき。

是に天皇の詔りたまいしく、「朕が聞けらく『諸家のもてる帝紀及び本辞、既に正実に違い、多く虚偽を加ふ』と。今の時に当りて其の失を改めずば未だ幾年も經ずして其の旨滅びなんとす。斯れ乃ち邦家の經緯、王化の鴻基(こうき)なり。故、惟(これ)帝紀を撰録し旧辞を討覈(とうかく)し、偽りを削り実(まこと)を定めて後の葉(よ)に流(つた)えんと欲(おも)う」とのりたまいき。時に舍人(とねり)有り。姓は稗田(ひえだ)、名は阿禮(あれ)。年は是れ二十八。人と爲り聰明にして、目に度(わた)れば口に誦み、耳に拂(ふる)れば心に勒(しる)す。即ち阿禮に勅語して、帝皇の日継(ひつぎ)及び先代の旧辞(くじ)を誦み習わしめたまいき。然れども運(とき)移り世異りて未だ其の事を行いたまわざりき。伏して惟(おも)うに、皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育(ていいく)したまう。紫宸に御して德は馬蹄の極まる所を被い、玄扈(げんこ)に坐して化は船の頭の逮(およ)ぶ所を照らしたまう。日浮びて暉(ひかり)を重ね、雲散りて烟にあらず。柯(えだ)を連ね穗を并(あわ)す瑞(しるし)、史、書(しる)すこと絶えず。烽(とぶひ)を列(つら)ね譯(えき)を重ぬる貢(みつぎ)、府、空(むな)しき月無し。名は文命よりも高く、德は天乙にも冠(まさ)りますと謂いつ可し。

焉(ここ)に於いて旧辞の誤り忤(たが)えるを惜しみ、先紀の謬(あやま)り錯(まじ)れるを正したまわんとして、和銅四年九月十八日を以ちて、臣安萬侶に詔りして「稗田の阿禮が誦める勅語の旧辞を撰録して献上せしむ」とのらししかば、謹みて詔旨(おおみこと)の隨に子細に採いつ。然れども上古の時は、言と意と並な朴(すなお)にして、文を敷き句を構うること、字に於きては即ち難し。已に訓に因りて述べたるは、詞心に逮(およ)ばず、全く音を以ちて連ねたるは、事の趣き更に長し。是を以ちて、今、或は一句の中に音訓を交え用い、或は一事の内に全く訓を以ちて録(しる)しぬ。即ち、辞理(じり)の見えがたきは注を以ちて明らかにし、意况の解り易きは更に注せず。また、姓に於きて日下を玖沙訶(くさか)と謂い、名に於きて帯の字を多羅斯(たらし)と謂う。此の如き類は本の隨(まにま)に改めず。大抵(おおかた)に記す所は、天地の開闢より始めて、小治田(おはりだ)の御世に訖(おわ)る。故、天御中主の神より下、日子波限建鵜草葺不合(ひこなぎさたけうがやふきあえず)の尊より前を上つ巻と爲し、神倭伊波禮毘古(かむやまといはれびこ)の天皇より下、品陀(ほむだ)の御世より前を中つ巻と爲し、大雀(おおさざき)の皇帝より下、小治田(おはりだ)の大宮より前を下つ巻と爲し、并せて三巻を録して、謹みて献上(たてまつ)ると。 臣安萬侶、誠惶誠恐頓首頓首。

和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶謹上

『古事記』の序文偽書説


古事記 不思議な1300年史に『古事記』の偽書説が一通り網羅されてます。

以下は、古事記 不思議な1300年史から引用です。

平成十四年(二〇〇二)に刊行された『口語訳 古事記』によって、平成の「古事記ブーム」を巻き起こした三浦佑之だ。平成十九年(二〇〇七)刊行の『古事記のひみつ』のなかで三浦氏は、『古事記』=和銅五年成立説が大いに疑わしいことをこれまでとは異なる視点から論じたのである。


口語訳『古事記』 完全版

 

 

 

古事記のひみつ―歴史書の成立 (歴史文化ライブラリー)

 

 

まず三浦氏は、『古事記』の成立が『続日本紀』に記録されていないのは、

(中略)

これらのことを根拠に三浦氏は『古事記』が『日本書紀』と一緒に並ぶような律令国家の時代=「八世紀的」な書物ではなく、それより一時代まえの「七世紀」の古層の本文を伝えていることを主張していくのである。

そうすると、「和銅五年」成立を記す本文はどうなるのか。ここに三浦氏の大胆な仮説が提示された。すなわち、「和銅五年」に太安万侶が編述し、元明天皇に献上した経緯が記された序文は、平安時代初頭、九世紀前半にでっちあげられた「偽作文書」であったと見るのである。そして偽作に携わったのは、太安万侶に繋がる太氏(多氏)の一族で、弘仁三年(八一二)~四年(八一三)に行われた「日本紀講」の博士を務めた「従五位下多朝臣人長」ではないかと推定する。『古事記』の成り立ちは天武天皇の勅命に発するという序文を偽造することで、太氏(多氏)の家のなかに伝わったフルコトブミ(古事記)の権威化をはかったというわけだ。かくして『古事記』そのものは、八世紀に正史が確定するまえにいくつも存在した「得体のしれない」歴史書のひとつ、という結論にいたるのである。

この後、古事記 不思議な1300年史は、この説に対する異論反論があげていくのですが、三浦氏の説の方が説得力があります。

『古事記』と『先代旧事本紀』の価値

しかし、序文が偽書であろうと七世紀の成立であろうと、『古事記』の価値が揺るぐものではありません。

それと同様に、『先代旧事本紀』の序文が偽書であろうと、『先代旧事本紀』の本文までを全否定してしまうのはもったいないことです。

また、『先代旧事本紀』に否定的な人は、物部氏関係の記録が多いので、物部氏に都合のいいように書かれているといいます。

しかし、それをいうなら『古事記』は出雲関係の記録が多いということで否定されることになります。

『先代旧事本紀』が、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』のパッチワークであっても、序文が偽書であっても、記紀が伝えない物部氏系氏族に伝承されてきた歴史、少なくとも、9世紀か10世紀あたりに物部系氏族が古伝と主張する事柄が記録されている事実は揺るぎません。

そして、それは宗祖・弘法大師・空海の系図にもつながる神代の記録なのです。

次回より、『先代旧事本紀』のその部分について紹介していきます。

 

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