『諸神本懐集』10 熊野権現の本地仏・阿弥陀如来としての御託宣

神道・神仏習合

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『諸神本懐集』9のつづき

なかんづくに、聖徳太子二十七歳の御とき、黒駒に乗じて、三日三夜のあひだに、日本国を巡見したまひけるに、熊野にまふでて一夜通夜したまひけるとき、権現と太子とことばをまじへて、たがひに種々のことどもをかたりたまひけるなかに、権現、太子にむかひたてまつりてのたまひけるむねをつたへきくに、ことに仏法に帰して後世をねがはば、かみの御こころにかなふべしとはしらるるなり。

そのおもむきは、
「われ、四十八願荘厳の浄刹をいでて、五濁濫漫穢悪の国土に現ずることは、衆生に縁をむすびて、ついに西方の浄土に往生せしめんがためなり。しかるに、漫々たる西海にふなばたをたたきてまふづるもの、超々たる東陸に馬にむちうちてきたるともがら、あるひは子孫の繁昌をいのり、あるひは現世の寿福をなげきて、さらに菩提をねがはず、出離をこととせず、ただ世間のことをいとなみ、いのり、ひとへに一旦の名利に貪着す。寿福は今生の祈請によらず。ただ過去の宿善にむくふ。修因感果の道理必然にして、神明仏陀の冥助もかなひがたし。たまたま万里の波濤をしのぎて、はるかに参詣をいたし、ひさしく数日の氷水をあゆみて行歩につかれ、おのおの法味をすすむといへども、衆生の内心と和光の本懷と、みなことごとく相違のゆへに、かの法施、かれさらに一分もうけず。かるがゆへに三熱の苦をうけて、本覚の理をわすれたり。しかるに、いま太子にあひたてまつりて、無上の法味をあぢはひ、最勝の法楽をうけて、三熱の苦のたちまちにやみて身すずしく、こころあきらかなり」
とのたまひけるなり。

“四十八願”とは、康僧鎧訳『仏説無量寿経』正宗分に説かれており、阿弥陀如来が仏に成る前、法蔵菩薩であったときに立てた48の誓願のことです。

ここで熊野権現は聖徳太子に、明らかに阿弥陀如来としての御言葉を告げておられるのです。

また、おなじき権現、堀河の院の御宇、寛治三年正月十五日に、御託宣のむねありけるは、
「われ、仏法をいでて娑婆にきたりしよりのち、無量劫をへたり。そのあひだ、つねに大国にむまれて、みな王身たりき。いま難化のさかひをたづねて、わが朝にわたりしよりこのかた、あとをたるること、すでに三千五百余載におよべり。これすなはち、本誓願を十方にひろめ、一切衆生を仏道にいらしめんがためなり」
としめしたまひけり。
かれをきき、これをおもふに、生死をいとひて浄土をねがひ、弥陀に帰して名号をとなへんひと、垂迹の素意にもしたがひ、本地の誓約にもかなふべしといふこと、その道理はなはだあきらけし。
されば念仏の行者には、諸天善神かげのごとくにしたがひて、よろこび、まもりたまふといへるは、このゆへなり。

 

 

 

 

 

 

※【本文】は、日本思想大系〈19〉中世神道論によりましたが、読みやすさを考慮し、カタカナをひらがなに改めました。

『諸神本懐集』11につづく

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