神道・神仏習合 諸神本懐集

『諸神本懐集』13 諸仏みな弥陀の分身なりときこへたり

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『諸神本懐集』12のつづき

 

『般舟経』・『楞伽経』の経文

このほかの仏菩薩、いづれか弥陀をそむきたるや。
西方をすすめざる。
いかにいはんや般舟経には、
「三世の諸仏、みな念弥陀三昧によりて正覚をなる」
と、ときたれば、弥陀は諸仏の本師なりとみへたり。
本師を念じたてまつらば、諸仏の御こころにかなふべし。

『般舟三昧経』(はんじゅざんまいきょう)は、最初期の大乗経典のひとつであり紀元前後に成立したとされています。
般舟三昧(はんじゅざんまい)とは、「現在仏がことごとく前に立つ三昧」であり、諸仏現前三昧(しょぶつげんぜんざんまい)とも仏立三昧(ぶつりゅうざんまい)とも訳され。
阿弥陀如来と極楽浄土を説く最古の文献とされ、浄土経典の先駆と考えられています。
しかし、『般舟三昧経』では、極楽浄土への往生を祈願願するのではなく、般舟三昧の瞑想修行、阿弥陀如来を見仏を通じ、覚りを目指す点で浄土教とは異なります。
「三世の諸仏、みな念弥陀三昧によりて正覚をなる」となる経文は、『般舟三昧経』にはありません。

また楞伽経には、
「十方の国土のあらゆる仏菩薩は、みな無量寿の極楽界よりいでたり」
と、とけり。
これは、諸仏みな弥陀の分身なりときこへたり。
しかれば、本仏の弥陀に帰せんひと、分身の諸仏に帰することはり、いはざるに顕然なり。
このゆへに、垂迹の御こころにかなはんとおもはば、本地の仏菩薩を信ずべし。
本地の仏菩薩の御こころにかなはんとおもはば、本仏の弥陀に帰したてまつるべし。
弥陀に帰すれば、三世の諸仏もよろこびをなして、これをまもり、十方の菩薩もえみをふくみて、つねにたちそひたまふ。
本地の諸仏菩薩、擁護したまへば、垂迹の諸仏また納受をたれたまふなり。
このゆへに、処々の神明等、念仏のひとを護念し、念仏の功徳を愛楽したまふこと、そのためし、おほくきこゆ。

『楞伽経』(りょうがきょう)は、中期大乗仏教経典です。
釈迦如来が楞伽(ランカー島=現スリランカ)において、羅婆那王(らばなおう)に対し、如来蔵や唯識について説かれている経典です。
羅婆那王は、ヒンドゥー教の聖典『ラーマーヤナ』に登場するラーヴァナです。

ラーヴァナ

『ラーマーヤナ』によれば、羅婆那王は十面二十臂の羅刹王であり、ランカー島を追われた羅刹族の再興を祈願し、十の頭を一つずつ切り落とし、炎に投じるという苦行をしました。
最後の一面を切り落とそうとしたそのとき、梵天に讃えられ、神に負けないという力を得ました。
『楞伽経』は瞑想修行における要点も説かれていますので、中国の初期禅宗でも重視されました。

八幡大菩薩の御託宣

八幡大菩薩御託宣の文にいはく、
「我昔出家名法蔵、即成報身住浄土、今来娑婆世界中、即為護念念仏人」
といへり。
文のこころは、われ、むかし出家のときは、法蔵となづけき。
すなはち報身となりて、浄土に住す。いま娑婆世界のうちにきたることは、すなはち念仏のひとを護念せんがためなりと。
ことに、和光垂迹の本意、念仏の行者を擁護したまふべきこと、聖教のこころに付合せり。

 

 

 

 

 

 

※【本文】は、日本思想大系〈19〉中世神道論によりましたが、読みやすさを考慮し、カタカナをひらがなに改めました。

『諸神本懐集』14につづく

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