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『大和葛城宝山記』解説4のつづき
釈迦牟尼仏、初めて菩提樹下に生まれて、無上の正覚を成ず。
初めて菩薩の波羅提木叉を結び、父母師僧三宝に孝順をなし、孝順至道の法の孝を名づけて戒と為す。
亦制止と名づく。
波羅提木叉(はらだいもくしゃ)は、梵語のプラーティモークシャの音訳。
意訳は、戒本、別々解脱、別解脱。
“制止”=戒
即ち口に無量の光明を放てり。
是の時、百億の大衆、諸菩薩、十八梵天、六欲天子、十六大国王、掌を合はせ心を至して、仏の誦する一切仏の大乗戒を聴く。
十八梵天=色界の十八天
六欲天子=欲界の六天
十六大国王=十六大菩薩
尓の時、十八梵天、六欲天子、庶人、黄門、婬男婬女、奴婢、八部鬼神、金剛神、畜生、乃至変化の人等、佛戒を受け、本源清浄の心地を解して、一宝真如の本居の身に帰する耳(のみ)。
庶人=庶民
黄門=男性器を切除された者
八部鬼神=天龍八部衆(てんりゅうはちぶしゅう)のこと。天龍八部衆は、天・龍・夜叉・乾闥婆(げんだつば)・阿修羅・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅伽(まごらが)。
大和の高日葛の神祇は、宝山の峯の金剛坐に居(ま)します。
天宮は霊山と一線の路を分ち、互ひに仏神の賓主と為る。
尽く天地人をして無為無事の大達なる場に居らしめ、生を超え死を出づる、之を清浄と名づく。
是れ大悲の用也。
諸天子は此の事を保任するの故に、尊宗を熟考して、天孫は天照太神を崇め、天照太神は則ち天御中主神を貴ぶ。
故に二柱の太神の霊鏡は、皇孫杵独王に属して、如々安楽の地に降り居(ま)して天下を治め、君臣万民を度す。
“天照太神は則ち天御中主神を貴ぶ”、ここでもまた伊勢神宮の内宮より外宮が上と読める説です。
尓の時、天帝、大和姫の皇女に託して宣たまはく、
「人は各天地大冥の時を念へ。日月星辰の像、虚空に照現するの代、神足地を履みて天御量柱を興つ
〈神語の天瓊戈、亦天逆戈、亦杵独王の矛、亦常住慈悲心王の柱なり〉。
中都国(なかつくに)に於いて、上去り下來りて六合を見そなはして、天照太神は悉く高天原〈三光の天なり〉を治め、天紱(ふつ)を耀かし、皇孫杵独王は、専ら豊葦原の中国を治め、日嗣を受く。聖明の覃(およ)ぶ所、砥属(ししょく)といふこと莫し」と。
宗廟社稷の霊。
得一無二の盟をなし、百王を鎮護するの神宣、孔照(はなはだあき)らかなり。
ここでいう“天帝“とは、天照皇大神(アマテラス)のことです。
“大和姫”=倭姫命(ヤマトヒメ)。
倭姫命(ヤマトヒメ)は、人皇第十一代・垂仁天皇の第四皇女で、天照皇大神(アマテラス)の託宣により伊勢神宮内宮を創建された御方です。
天瓊戈(アメノヌボコ)・天逆戈(アメノサカホコ)は同体異名で、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が国生みされた天之瓊矛(アメノヌボコ)のことです。
杵独王=瓊瓊杵尊(ニニギ)
“〈神語の天瓊戈、亦天逆戈、亦杵独王の矛、亦常住慈悲心王の柱なり〉”とありますが、常住慈悲心王がビシュヌ神であることを考えると、ヒンドゥー神話の乳海攪拌が連想されます。
乳海攪拌は『マハーバーラタ』などで説かれます。
そこでは、ヴィシュヌが巨大な亀クールマとなり、背に大曼荼羅山を乗せ、乳海に入りました。
大曼荼羅山に龍王ヴァースキを絡ませ、神々は龍王の尾を、阿修羅たちは龍王の頭を持ち、交互に引きあって大曼荼羅山と大亀を回転させ、乳海を攪拌しました。
『大和葛城宝山記』と『マハーバーラタ』、原初の海を攪拌したものがともにビシュヌであるとされています。
水大の元始
夫れ水は則ち道の源(みなもと)、流れて万物の父母と為る。故に森羅万像を長養す。
当に知るべし、天地開闢の嘗(むかし)、水変じて天地と為りしより以降(このかた)、高天海原に独化(ひとりな)れるの霊物在り。
其の形葦牙如し。
其の名を知らず。
爾の時、霊物の中四理志出(なかよりして)神聖化生す。
之を名づけて天神と曰ひ、亦大梵天王と名づけ、亦尸棄大梵天王と称す。
天帝の代(みよ)に逮(およ)びて、霊物を名づけて天瓊(あめのと)玉戈(ほこ)と称す。
亦金剛の宝杵と名づく。神人の財と為り、地神の代(みよ)に至りて、之を天御量柱、国御量柱と謂ふ。
茲に因りて、大日本の州の中央に興(た)てて、名づけて常住慈悲心王の柱と為す。此れ則ち正覚正智の宝に坐します也。
故に心柱(しんのみはしら)と名づくる也。
天地人民、東西南北、日月星辰、山川草木、惟(ただ)是れ天瓊玉戈の応変にして、不二平等の妙体也。法起王宜はく、
「心柱は是れ独古三昧耶形、金剛宝杵にして、所謂(いはゆる)独一法身の智剣也。故に大悲の徳海の水気変じて、独古の形と化(な)る。独古の形変じて栗柄(くりから)と化し、栗柄、明王を現じ、明王、八大龍王と化りて、心柱の守護に、十二時の将、常住不退、是れ不動本尊の縁也。故に龍神、八咫烏の所化ならば、諸天の三宝、三先にして、荒振(あらぶる)神の使たる也。
心御柱(しんのみはしら)は、忌柱 ( いみばしら ) 、天ノ御柱 ( あめのみはしら ) 、天ノ御量柱 ( あめのみはかりのはしら )とも呼ばれ、伊勢神宮の 正殿 ( しょうでん )の御床下に建てられる御柱であり、神が宿る神籬 (ひもろぎ)です。
※参考『二所大神宮麗気記』
以下、重複した内容が続くので、これまでの解説で理解できると思います。
大八洲中国の神の座処
吼雀王、古語に一言主、曰はく、
「以昔(むかし)、日の子伊弉諾尊、月の子伊弉冉尊、皇天の勅宣に従ひて、天瓊玉戈を受けて、山跡(やまと)の中央に立つ。国家の心柱と為(し)て、八尋の殿を造る〈神祇峯是れ也〉。二柱の神、真経津(ますみの)鏡捧げ持ち、日神・月神と化生してより以来、天下を治め、無相の鏡を以て、神象を磯城(しき)の厳橿(いつかし)の本(もと)の祠に崇むるの故に、金剛峯と名づく。亦日神の所化の故に、大日本高見国(おほやまとひたかみの)と称する也。天帝、恵日を耀かし、癡闇を除き、清浄心を象(かたど)りて、世の福田と為す。権教を仮(か)らず。唯正道を楽(ねが)ふの故に、大葦原千五百秋瑞穂中国(ちいふのあきのみづほのなかつくに)と号す。故に聖には智柱(ちはしら)の立(た)つる瑞穂安國(みづほのやすくに)と曰ふ。此れ常住不二の心柱の義也」と云云。
法起菩薩曰はく、
「大千世界は常住一心なり」と云云。
吾聞く、大日孁尊と法起王と、掌を合せて宣たまはく、
「此の地は則ち尊王の本行、最勝の験処也。一切の衆生、妙法を信受する清浄の地也」と。之に因りて、諸天雲の如く集まり、利生雨の如く灑(そそ)く。天神地祇、天地の人神、森羅万像は一毫も差別無し。
唯一堅密の身を現じ、国を治め家を治め、物を利するの故に、大和の地と名づく。亦安国と称し、亦一乗の峯と名づく。
亦神祇宝山と号して、一言主神を崇め、地鎮の神と為す。
之を孔雀王の垂跡と謂ふ也。
第三十一代、高天原広野姫朝廷の御宇、葛木の一言主神と役優婆塞と、互ひに相ひて心を合せ徳を合せて、大法の導師たり。
而るに金剛大悲、弁才尽くること無く、能く衆生の煩悩を滅し、遍く国土に遊ぶ。清浄の法を以て、衆毒を抜き、魔縁を降伏せしむ。是れ執金剛神の威徳也。
爰に居る人の中に最大の神地は、正しく神明を崇め、終日潔清なることを乱さず、三惑業の身を汚さず、法を以て身と為し、恵を以て命と為し、信を以て徳と為し、道を以て家と為す。
心を以て主と為す、仮を以て客と為す。
神心調然として、宗祖の道徳を光揚し、時時現前の煩悩、塵塵の解脱をなし、身の独古、変形する神術なり
〈此の宝杵は、則ち常世の宮殿の内に納め奉る。俗に云ふ五百鈴川の滝祭の霊地、底津宝の宮是れ也。是れを滝宮城と名づくる也。亦仙宮と号する也〉
神語の神宝は大八洲を形どり、法性の海の中に入り、天瓊玉戈を用ひて、従前の妄想を降伏し、穏密清浄の本地に至る。
故に一心不乱の菓法外に無し。只是れ切に不浄猛利の人を忌む耶。
夫れ天瓊玉戈は、亦は天逆矛と名づく。
亦は魔反戈(まがへほこ)と名づけ、亦は金剛宝剣と名づけ、亦は天御量柱、国御量柱と名づけ、亦は常住の心柱と名づく。
亦は忌柱と名づくる也。惟(おもんみ)れば是れ、天地開闢の図形(しるし)、天御中主の神宝、独鈷の変ぜる形にして、諸仏の神通、群霊の心識、正覚正智の金剛に坐します也。
亦は心蓮と名づく。
帰命本覚心法身 常住妙法心蓮台
本来具足三身徳 三十七尊住心城
普門塵数諸三昧 遠離因果法然具
無辺徳海本円満 還我頂礼心諸仏
“帰命本覚心法身”から“還我頂礼心諸仏”までは、「本覚讃(ほんがくさん)」と呼ばれ、修験道でよく唱えます。
凡そ八百万の神祇、下生して、南閻浮提の釈迦尊と与(とも)に、父と為り母と為り、君と為り臣と為りて、生々世々不従はざるの世人無し。
孝順の心無く、軽垢罪を犯して、地獄に堕つ。
故に日神盧舎那仏等、大乗の心地を説く而已(のみ)。
“日神盧舎那仏”
ここではっきりと“盧舎那仏”=大日如来が、“日神”=太陽神であると理解されていたことがわかります。
「大日如来即天照大神」
熒惑(けいわく)して心秘の要を守り、右之を筆記する耳(のみ)。
時に己卯、沙門行基勅を奉じ、之を撰鈔す。天平十一年己卯、伊勢太神宮の政印一面、始めて之を鋳進む。環柏一百枚を二所太神宮に奉り上ぐ。
神祇宝山記
以て秘本を校し了んぬ
金剛山縁起に云はく
「白鳳四十年辛卯三月の比、役の行者、葛木の縁起十巻を勘(かんが)へ、 之を録し給ひ、一言主の大明神に領(あづ)け奉り給ふ間、一言主、蔵に置かれ納め奉り畢んぬ。其の十巻の内、金剛峯の神祇の巻、世間に流布す。 彼の十巻の縁起は、一言主の明神より、行者返し取り給はずして、大宝元年辛丑六月七日入唐し給ひ畢んぬ。慶雲二年乙巳歳、文武天皇の御宇、一言主の社の神主に、彼の縁起を御尋有り。然るに神、恐れを成し奉るに依りて、取り進め奉らずと云云。其の後、元正天皇の御宇、養老五年辛酉歳、沙門行基、勅定に依りて、僅に金剛山の神祇等の肝要の萬が一を取り、所所を伺ひて記し出せる也。此の外に、昔神祇の尾に天降り給ふ諸神、金剛山の麓の当峯、嶽獄の御在所、其の数多しと雖も、委しく記すに及ばず。 人皆知る所也。
天平十七年辛酉四月一日
興福寺の仁宗之を記し伝ふ」と。
右大和葛宝山記一冊、元禄四辛未秋、小野沢助之進京師に於いて之を写す。
『大和葛城宝山記』、完結です。