『中臣祓訓解』6 毘盧遮那は法身如来、盧舎那は報身如来、諸仏は応身如来なり

中臣祓訓解

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『中臣祓訓解』5のつづき

承和二年丙辰二月八日、大仁王会の次に、東禅仙宮寺の院主大僧都、吉津御厨(きつのみくりや)の執行の神主河継に授け給ふ伝記に曰はく、「神は是れ天然不動の理、即ち法性身なり。
故に虚空神を以て実相と為て、大元尊神と名づく。
所現を照皇天と曰ふ。
日と為り月と為る。
永く懸(かか)りて落ちず。
神と為り皇と為る。
常に以て不変なり。
衆生業起するが為に、宝基須弥の磬鏡を樹(た)てて、三界を照し、万品を利す。
故に遍照尊と曰ひ、亦は大日霊尊と曰ふ。
豊葦原中津国に降り居(ま)す。
其の名を点じ、其の形を談じて、天照坐二所皇大神と名づく。
是れ中道法身、常住不反、金剛不壊躰、遍照の智性。
火にも焼けず、水にも朽ちず无漏无垢、清浄白浄の光明、法界に周遍す。
而も心を法界に遊ばしむるは、是れ諸仏の光明、神通力不可思議、言語道断の徳用なり。
故に神は一気の始、生化の元(はじめ)なり。
仏は覚の儀、僧は浄也。聖は无為の者なり。
凡は有為の者なり。
凡そ天神地祇は、一切の諸仏、惣べて三身即一の本覚の如来と、皆悉くに一躰にして二无し。
毘盧遮那は法身如来、盧舎那は報身如来、諸仏は応身如来なり。
三諦は三身なり。
即ち中を法身と為、則ち空を報身と為、即ち仮を応身と為。
三智あり。
一切智は空を照し、道性智は仮を照し、一切種智は中を照す。
三身三智も亦一心に在り。故に一躰には差別無し。
是れ神の一妙なり。
是れ皇天の徳なり。
故に則ち伊勢両宮は、諸神の最貴なり。天下の諸社に異なる者なり。
大方の神に三等在り。
謂はゆる一に本覚といふは、伊勢大神宮是れなり。
本来清浄の理性、常住不変の妙躰なり。
故に大元尊神と名づく。
境界に風動転せず。
心海湛然として波浪无し。
宝躰一心にして、外に別法無し。
本覚と名づくるなり。
二に不覚といふは出雲荒振神(あらぶるかみ)の類なり。
遠く一乗の理法を離れて、四悪四洲を出でず。
仏法僧を見、諸仏の梵音を聞きて心神を失ふ。
无明悪鬼の類なり。
神は是れ実の迷神なれば、名づけて不覚と為るなり。
三に始覚といふは、石清水広田社の類なり。流転の後に、仏説の経教に依りて、无明の眠り覚めて本覚の理に帰る。
是れを始覚と為。
亦実語神と名づくるなり。
惣べて始覚成道の者、仏の外迹と成るなり。
本覚は本初の元神に非ざるなり」と云々。
念心は是れ神明の主なり。万事は一心の作なり。
神主の人人、須(すべから)く清浄を以て先と為、穢悪の事に預からず。
鎮(とこしなへ)に、謹慎の誠を専(もはら)にして、宜しく如在の礼を致すべし。
是れ則ち神明内証の奥蔵、凡夫頓証の直道なる者か。

中臣祓訓解

 

 

『中臣祓訓解』完結

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