仏教・瞑想 坐禅三昧経

『坐禅三昧経』12「第三 愚痴を治するの法門」

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『坐禅三昧経』11のつづき

第三 愚痴を治するの法門

「若し愚痴なること偏多なれば、当に三種の思惟法門を学ぶべし。

或いは初めて行を習し、或いは巳に行を習し、或いは久しく行を習するなり。

若し初めて行を習せば、当に教うべし。

言わく、『生は老死に縁り、無明は行に縁る。

是くの如く思惟して外念あらしめず、外念の諸縁、之れを摂して還らしむ』と。

若し巳に行を習せば、当に教うべし。

言わく、『行は識に縁(よ)り、識は明色(みょうしき)に縁り、明色は六入(ろくにゅう)に縁り、六入は触(そく)に縁り、触は受に縁り、受は愛に縁り、愛は取に縁り、取は有(う)に縁る。

是くの如く思惟して外念あらしめず。

外念の諸縁、之れを摂して還らしむ』と。

若し久しく行を習せば、当に教うべし。

言わく、『無明は行に縁り、行は識に縁り、識は明色に縁り、明色は六入に縁り、六入は触に縁り、触は受に縁り、受は愛に縁り、愛は取に縁り、取は有に縁り、有は生に縁り、生は老死に縁る。

是くの如く思惟して外念あらしめず、外念の諸縁、之れを摂して還らしむ』と」と。

問いて曰く、「一切智の人、是れ明有り。

一切の餘人、是れ無明なり。

是の中、云何が無明なるや」と。

答えて曰く、「無明は一切不知と名づく。

此の中の無明、能く後世の有を造る。

有は無にして、無は有なり。

諸もろの善を棄てて、諸もろの悪を取らば、実相を破して虚妄(こもう)に著(じゃく)す。

無明相品中に説けるが如し

自ら法を蓋(おお)うを明らかにせず

道徳の業を知らざれば

而ち結使(けっし)の因を作すこと

火の熢(ひうち)を鑚(き)りて生ずるが如し

悪法、而ち心に著し

善法を遠棄(おんき)すれば

衆生の明を奪える賊にして

明を去来せること、亦た劫なり

常・楽・我・浄の想

五陰中に計り

苦・集・尽・道の法も

亦復(ま)た知る能(あた)わず

種種、険道に悩み

盲人、中行に入(い)る

煩悩の故に業、集まり

業の故に苦流、廻(めぐ)る

応に取るべからずして取り

応に取るべくして反(かえ)って棄(す)つ

闇に馳(は)せて非道を逐い

株を蹴りて地に躃(たお)る

目、有りて慧、無く

其の喩えは亦た是くの如し

是の因縁滅するが故に

智の明らかなること、日の出(い)づるが如し

是くの如く略説す。

無明より乃ち老死に至るまでも亦た是くの如し」と。

問いて曰く、「仏法中の因縁、甚だ深し。

云何が痴の多き人、能く因縁を観ぜんや」と。

答えて曰く、「二種の痴人あり。

一つには牛羊の如く、二つには種種に邪見す。

痴惑の闇、邪見の痴人を蔽(おお)う。

仏、此れが為めに当に因縁を観じて以て三昧を習すべし、と説けり」と。

『坐禅三昧経』13につづく

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