『先代旧事本紀』概要

先代旧事本紀

『先代旧事本紀』は「せんだいくじほんぎ」、または「さきのよのふることのもとつふみ」と読み、「旧事本紀(くじほんぎ)」や「旧事紀(くじき)」とも呼ばれます。

全十巻から成り、天地開闢から推古天皇までの史書です。

『先代旧事本紀』の「序」によれば、本書は聖徳太子(574-622)と蘇我馬子(?-626)が編述したと伝えられます。

平安時代より長らく、『日本書紀』『古事記』と並ぶ三大史書とされてきました。

ところが、延宝七年(1679)に、『先代旧事本紀大成経(以下、『大成経』)』が発見されました。

この『大成経』は、七十二巻という膨大な書であり、当時、大きな話題となりました。

その中の伊雑宮(いざわのみや・いぞうぐう)に関する記述が問題となりました。

伊雑宮は内宮の別宮とされ、伊勢神宮のHPによれば、

伊雑宮の創立は約2000年前、第11代垂仁(すいにん)天皇の御代といわれます。皇大神宮ご鎮座の後、倭姫命(やまとひめのみこと)が御贄地(みにえどころ)を定めるため、志摩国をご巡行された後、伊佐波登美命(いざわとみのみこと)がこの地に神殿を創建し、皇大御神の御魂をお祀りしたと伝えられています。

とあり、天照皇大神(アマテラス)が内宮に鎮座した後に伊雑宮にも祀られたとされています。

ところが『大成経』には、伊雑宮が内宮よりも先に天照皇大神(アマテラス)を祀っていたとし、伊勢両宮よりも伊雑宮が上であるかのように記されています。

そのため、伊勢神宮の神職の訴えにより、天和元年(1681)、幕府が『大成経』を偽書と断定。

偽作に関わった者には流刑などの処罰が与えられ、『大成経』は焚書されました。

このとき、『大成経』だけでなく、『先代旧事本紀』のイメージが悪くなったことは想像に難くありません。

その後、徳川光圀、多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長たちによって次々と偽書説が主張されました。

たしかに、『先代旧事本紀』の本文は全体に『古事記』(712)や『日本書紀』(720)、『古語拾遺』(807)からの引用による継ぎはぎにより構成されているため、蘇我馬子(?-626)の序文は偽書でまちがいないと思われます。

しかし、『続日本紀』の承平年間(931-938)に引用される『日本紀私記』に『先代旧事本紀』への言及があることから、『先代旧事本紀』の成立は平安時代初期とされています。

序文が偽書であっても『先代旧事本紀』は、『日本書紀』や『古事記』が伝えない物部氏系氏族に伝承されてきた歴史、少なくとも、9世紀か10世紀あたりに物部系氏族が古伝と主張する事柄が記録されており、資料価値が高いことは否定できません。

 

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