私は髪の毛だけではなく、眉毛も剃り落としていた。
タイの僧侶は皆そうなのだ。
ミヤンマーと戦争を繰り返していた昔、信仰心厚い両国に、たびたび僧形のスパイが送り込まれてきた。
タイやミヤンマーなどの上座部仏教の国では、日本では考えられないほど僧が敬われている。
僧に失礼があってはならないと誰もが思っているから、僧形のスパイを見つけ出すのは困難なのだ。
敵国のスパイと区別するために、タイの僧侶は眉毛も剃ることになった。
眉剃りは、そのとき以来の伝統だという。
私は毎朝6時になると、先輩僧たちの列について托鉢に出かけた。
皆、黄土色の袈裟に身を包み、髪と眉を剃り、鉢を持って、裸足のまま霧の中を歩いていく。
霧の境内に積もった落ち葉を踏みしめていくうちに、毎日、必ず棘が刺さる。
境内から出ると皆うつむく。きょろきょろしたり、一般歩行者と目を合わせたりしてはいけない、という戒律があるからだ。
寺の周りには、広大な田畑しかなかった。
霧で覆われた田んぼの真ん中に、アスファルトの道が伸びている。
その道を個性を捨てた僧たちが、うつむいたまま霧の中へと歩いて行く。
霧を抜けると、町に出た。
路地を右に折れると、いつものおばさんがお釜を持って待っていた。
おばさんはうやうやしく、お釜の中のあたたかい米を、少しずつ皆の鉢に入れてくれた。
バンコクでは袋に入れた米を鉢に入れてくれるが、ピサヌロークでは米を直接、鉢に入れてくれた。
おばさんは全員の鉢に喜捨し終わると、合掌してしゃがみ込み願い事を始める。
僧侶である私たちは、パーリ語の経文を唱える。
物事には必ず特定の原因があり、特定の原因からは特定の結果しか生じない。
西瓜の種から、蓮は生じないのだ。
すべての存在は、何らかの原因から生じた結果であり、同時にそれは未来に特定の結果を生じる原因でもある。
原因と条件がそろう時、それは果として現象化する。
幸福になりたければ、あなたはその原因となる行為を実行しなくてはいけない。
タイの人たちは本当に幼い子供でも、この法則を知っている。
人々に幸福の因を積んでもらうために、黄土色の列はうつむいたまま淡々と歩いていく。