千葉氏に関する文書である『千学集抄(せんがくしゅうしょう)』に、“羊妙見菩薩”という珍しい尊名が登場します。
この『羊妙見菩薩』を調べていくと、興味深い事柄がずるずると引きずり出てきます。
妙見菩薩は、千葉氏の守護神です。
千葉周作(1793-1856)が創始した剣術・薙刀術の流派である北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の「北辰」も北辰妙見菩薩からです。
ちなみに、北辰一刀流が現在の剣道に直結した流派です。
『千学集抄』にも妙見菩薩の名が多く登場します。
『千学集抄』の成立年代は天正年間(1573-1593)とされています。
『千学集抄』は、『千学集抜粋(せんがくしゅうばっすい)』とも呼ばれ、『千学集』から抜き書きした抄本ですが、残念ながら『千学集』は焼失してしまい、抄本のみが現存しています。
『千学集抄』は誤字脱字が多く、意味が通らない箇所もあります。
そもそも、『千学集』というタイトルそのものが誤字ではないかともいわれ、改訂房総叢書〈第1-3輯〉 (1959年)の【解説】には、“元来は「千葉集」と稱したものであらうか”と記されています。
しかし、“羊妙見菩薩”は妙見菩薩の誤りではありません。
次の文章は『千学集抄』の「千葉御家御代々の事」に記された妙見菩薩が千葉氏の守護神とされる由来です。
将門平親王は、人皇六十一代朱雀帝の御時、承平元年に謀反を起せり。陸奥守良文を伴ひて関東上野国に乱れ入り、上野国群馬(くるま)郡府中花園の村、染谷河といふ所に、折しも水増して吹く風波高かりければ、たやすく渡すべきやうなし。
ここに十二三ばかりなる小童出で来て、「此の川渡すべし」と云ふ。良文将門乃ち、「是ほどに水増し波高からんにはいかに」と云ふ。
良文将門乃ち「是ほどに水増し波高からんにはいかに」と云ふ。
「さらば瀬踏みせんものを」と、真先かけにければ、大将初め是を恃みに渡しにけり。
水は南へと落ちて、馬の太腹隠すにて渡す。国香の大軍は渡しかねて、河向ふに控えて戦を始めけり。さて染谷川にて七月七夜の内に合戦三十四度なり。
味方は七騎に打ちなされ、良文も落馬しけるが、心中に断念しけるは、「此のあたりに如何なる仏神三宝在しますや。今の戦ひに、力を合せ給へ」と。
其の時羊妙見大菩薩雲中より下りまして矢を拾はせ給ひ、良文七騎に与へ射させければ、七騎の声は千萬騎の声と聞えて、敵の上には剣を雨(あめふ)らしければ、敵の大軍皆度を失ひけり。
彼の七騎は手も負はず、大敵に切り勝ち給ふ。
小童忽ち天に昇らんとせし時、両将は、「如何なる神」とぞ伺ひにける。
「善哉、我こそは妙見菩薩ぞ。親王の紀汝を孕み給うて三月なる頃、此の若を誕生しなんには、妙見大菩薩の氏士に奉らんと祈誓申し給ひし故に、染谷河に現る。国香の大軍かなはずして蜘蛛の子を散すが如く失せぬ。国香は山中にひそみかくれぬ。此の後は良文将門の小符(しるし)には、月星こそは」と、告げ終りて失せ給ふ。さてこそ九曜を家紋とせられけれ。
聖武天皇勅願所、行基菩薩創立、神亀五年己卯八月十五日の開基なり。
本尊は妙見大菩薩にて在します也。
群馬府中花園村七星山息災寺と申す寺の本尊を、或説に美珠香都摩の作と申して、木像七体に在します。
中にも羊妙見大菩薩、即ち小童と出現し給ふ也。(改訂房総叢書〈第1-3輯〉 (1959年)所収の『千学集抄』より)
※旧字体は新字体に改めました。
※読みやすいように改行を加えました。
平将門(たいらのまさかど・?-940)の叔父である平良文(たいらのよしふみ・886-952)は桓武天皇のひ孫(玄孫説もあり)です。
平良文は、日露戦争で連合艦隊司令長官を勤められた東郷平八郎(とうごうへいはちろう・1848-1934)のご先祖でもあります。
将門が謀反を起こし、良文の長兄である平国香(たいらのくにか・?-935)が平定のために兵を出すと、良文は将門について戦いました。
七日間で34回の戦闘が繰り返され、朝敵である将門と良文の連合軍は劣勢となりました。
窮地に陥った将門・良文軍の上に雲の中から童子姿の神があらわれ、その神のおかげで将門・良文軍は何とか勝つことができました。
その神こそ「羊妙見菩薩」だというのです。
平良文は千葉氏の始祖です。
それ以来、妙見菩薩が千葉氏の守護神となりました。
羊妙見菩薩2 羊太夫 行基菩薩へつづく