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羊妙見菩薩2 羊太夫 行基菩薩

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羊妙見菩薩1 平将門と平良文を助けた羊妙見菩薩のつづき

謀反と星神

平将門と平良文の連合軍を救った羊妙見菩薩が出現した“上野国(こうずけのくに)群馬(くるま)郡”という場所は、現在の群馬県高崎市にあたり、そこに建立された“七星山息災寺”は、現在の三鈷山妙見寺(天台宗)です。

妙見菩薩は北極星ですが、日本において星神は謀反、反乱を起こす側である例が多くみられます。

『日本書紀』巻第二 神代下 第九段本文に

【読み下し文】二神(ふたはしらのかみ)、遂(つい)に邪神(あしきかみ)及び草木石(くさきのいわ)の類を誅(つみない)て、皆已(すで)に平(む)げ了(おわ)る。其(そ)の服(うべな)わぬ者は、唯(ただ)星神香香背男(ほしのカガセオ)のみ。

【現代語訳】二神は、ついに邪神や草木・石の類を誅し、皆すでに平定した。唯一従わぬ者は、星神である香香背男(カガセオ)のみとなった。

『日本書紀』巻第二 第九段一書(二)に

【読み下し文】一書(あるふみ)に曰(いわ)く、天神(アマツカミ)、経津主神(フツヌシのかみ)武甕槌神(タケミカヅチのかみ)を遣(つかわ)して葦原中国(あしはらのなかつくに)を平(たい)らげ定めせしむ。
時に二神(ふたはしらのかみ)曰く、「天に悪しき神有り。名を天津甕星(アマツミカボシ)、亦(また)の名を天香香背男(あめのカガセオ)と曰う。請(こ)う、先ず此(こ)の神を誅し、然(しか)る後に下りて葦原中国を撥(はら)わん」

【現代語訳】ある書によれば、天神(アマツカミ)は経津主神(フツヌシ)と武甕雷男神(タケミカヅチ)を葦原中国を平定させるために遣わせようとした。すると、その時、二神は「天に天津甕星(アマツミカボシ)、別名を天香香背男(カガセオ)という悪神がいます。まず、この神を誅し、その後に天降って葦原中国を治めさせていただきたい」と言った。

中世、天津甕星(アマツミカボシ)は妙見菩薩とも習合します。

羊氏

平安時代の『倭名類聚抄』によれば、上野国には群馬郡の他に、碓氷(うすひ)郡・片岡(かたおか)郡・甘楽(かむら)郡・多胡(たご)郡・緑野(みとの)郡・那波(なは)郡・吾妻(あかつま)郡・利根(とね)郡・勢多(せた)郡・佐位(さゐ)郡・新田(にふた)郡・山田(やまた)郡・邑楽(おはらき)郡があります。

奈良時代、多胡郡の郡司に羊太夫(ひつじだゆう)が任命されています。

羊太夫について、多くの資料を収集し、調査されている増田修氏の多胡碑の「羊」と羊太夫伝承によりますと、

羊太夫伝説で、筆録された写本や地方史誌等に集録されているものは、私が調査しただけでも二十数種ある。
各種の羊太夫伝説にほぼ共通するストーリーは、次のようなものである。

昔、この地に羊太夫という者がいて、八束小脛という従者に馬を引かせて、都に日参していた。あるとき、羊太夫が昼寝をしている小脛の両脇を見ると羽が生えていたので、いたずら心から抜き捨ててしまった。そのため、羊太夫は参内できなくなった。
朝廷は、羊太夫が姿を見せなくなったので、謀反を企てていると考え、軍勢を派遣し羊太夫を討伐した。落城間近となった羊太夫は、蝶に化して飛び去ったが、池村で自殺した。

ここでも“謀反”というキーワードが登場します。


牛頭天王と蘇民将来伝説――消された異神たちによれば、

そうした信仰を持ち込んだのが、朝鮮半島から渡来した馬飼い集団であり、これら高句麗、新羅から渡ってきた騎馬民族としての渡来人が住み着いたのが河内国で、ここにまず妙見信仰のメッカが生まれた。次いで北関東に移住し、その末裔たちが牧場を開き、馬飼いを業とした(群馬や相馬といった「馬」の字が着く地名はここから生まれてきた)。妙見信仰が北関東をホーム・グランドとしているのは、こうした歴史が積み重なっているからだ。
妙見信仰が、叛逆、謀反のシンボルとなった理由は、こうした北関東に散らばった渡来系の牧民集団を背景とした武装勢力の台頭にあったというべきだろう。

群馬県安中市には羊太夫が神として祀られている羊神社があります。

咲前神社のHPの羊神社のPによれば、

 当社は多胡新田とも呼ばれる宇久保に鎮座し、創建の由来は多胡郡の多胡一族が上里見村真野(多胡神社鎮座)に落ち延び、その後延宝年間に下秋間字日向(堂宇鎮座)と当地へと移住すると共に、多胡新田を開発し、祖神とする多胡羊 太夫藤原宗勝公を祀り、享和2年(1802)正式に多胡羊霊を祀った。
また縁記に『多胡羊太夫由来記』などが伝えられ、それに依れば、羊太夫宗勝は脇羽の生えた若者と権田栗毛という名馬を持ち、一日で都を行き来し参勤し、功により藤原姓も賜ったが 言で官軍に攻められ、最期は金色の蝶となり飛び去ったという。

とあります。

羊太夫は藤原姓を賜ったので、羊神社には藤原氏の氏神である天児屋根命(アマノコヤネ)を祀っているのでしょう。

羊太夫が渡来した氏族の出身であるかは諸説あります。

渡来系の方向で探ってみると、羊氏(ようし)は中国の史書『晋書』などにも登場します。

羊太夫が郡司を勤めた多胡郡の「胡」は中国から北西方向の異民族を指す文字でもあります。

楊衒之(ようげんし)撰『洛陽伽藍記』には、禅宗の祖・達磨大師(だるまだいし)が胡人であることが記されています。

【読み下し文】時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯国(ササン朝ペルシア)の胡人也。起ちて荒裔(はるか)なる自(よ)り中土に来遊す。

【現代語訳】その頃、西域の僧で菩提達摩という者がいた。ペルシア生まれの胡人であった。彼は遥かな夷狄の地を出て、中国へ来遊した。

多胡郡を胡人が多い郡と解釈すれば、渡来系の羊氏が郡司を勤めるという説もありそうな気がします。

しかし、増田修氏は多胡碑の「羊」と羊太夫伝承の中で結論は避けつつも、“多胡碑の「羊」は、新羅系渡来人というより、むしろ倭人であろう。”と述べられています。

羊太夫と同じ奈良時代の名僧・行基菩薩は『続日本紀』巻七 養老元年(717)四月に

【書き下し分】まさに今、小僧行基ならびに弟子等、街衢(がいく)に零畳(りょうじょう)して、妄(みだり)に罪福を説き、朋党を合せ構えて、指臂(しひ)を焚き剥(は)ぎ、門を歴(へ)て仮説(けせつ)して、強ひて余り物を乞ひ、詐(いつわ)りて聖道と称して、百姓を妖惑(ようわく)す。

※零畳=落ち葉が落ち重なるように、秩序なく群集する状態

後に大僧正となり、東大寺の四聖の一人とされる行基菩薩も反骨精神の持ち主だったのでしょう。

行基菩薩の父・高志 才智(こし の さいち)の名は、佐陀智・貞知(さだち)、あるいは、羊(ひつじ)とも書かれます。

行基菩薩もまた、羊の血を継ぐものといえるのかもしれません。

 

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