『諸神本懐集』9 園城寺(三井寺)の新羅明神

神道・神仏習合

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『諸神本懐集』8のつづき

園城寺(三井寺)の新羅明神

かの新羅の明神ときこゆるは、園城寺の鎮守なり。

園城寺(おんじょうじ・滋賀県大津市)は天台寺門宗の総本山で御本尊は弥勒菩薩。
通称は、三井寺(みいでら)で近江八景の「三井の晩鐘」で有名。
観音堂は西国三十三所観音霊場の第十四番札所であり、如意輪観音が祀られています。
天台寺門宗の宗祖・智証大師・円珍(814-891)が感得した黄不動は日本三不動の一尊。
明治に来日し、欧米に日本美術を紹介したアーネスト・フランシスコ・フェノロサ(1853-1908)は園城寺で受戒しました。
その縁で、没後、園城寺塔頭の法明院に納骨されています。

新羅明神は智証大師・円珍が唐から帰国する際に船首に現われた神と伝えられます。

万里の蒼海をしのぎて、このてらの仏法を守護したまふ。

しかるに、鳥羽院の御宇、保安三年閏五月三日、延暦、園城寺のあらそひありて、三井寺やけにけり。

これよりさきにも、一条院の御宇、正暦四年八月二十四日、このてらに炎上あり。

また白河院の御宇、永保元年六月九日に、山門よりやかれしかども、そのときは、ひとおほく滅亡におよばざりけるにや。

このたびは、そのたたかひいたりて強盛なり。

しかれば、顕密の僧侶おほくいのちをうしなひ、安置の仏経ことごとくほのほをまぬかれず。

聖跡まのあたりけぶりに化し、霊場たちまちに血に変じき。

伽藍は、いしずえのみのこりて、しかしながら虎狼のすみかとなり、ふるきあとは、くさのみふかくして、糜鹿(びろく)のそのとなれり。

※糜鹿(びろく)=糜(び)は大鹿。つまり、字義は大鹿と鹿。野卑なものの比喩として用いられます。

まことに、目もあてられざりけるありさまなり。

そのころ、あるてら法師のゆめにみるやう、褐冠してしろきはかまきたる人、伽藍のあとに徘佪す。

「たれぞ」

ととへば、こたへていふやう、

「われはこれ新羅大明神の眷属なり。このてらを守護せんがために、経廻するなり」

といひけり。

この僧、ゆめのうちに、あざけりていはく、

「仏像・経巻・堂舎・僧房、ことごとく灰燼となりぬ。無益の守護かな」といひければ、かのひと、こたふるむねなくしてうせぬ。

そののち、直衣きたる老翁の、まゆの毛ながくたれて、くちまでにおよび、かみひげしろくして、そのかたちつねにあらずあやしげなるひといできたり、僧につげていはく、

「なんぢがいふところ、はなはだ子細をしらず。われ、はるかに新羅の本国をすてて、このてらにきたり住することは、堂舎・僧房を守護せんとにはあらず。ただ出離生死のこころざしあらんものを、まもらんがためなり。しかるに、このたびの炎上によりて、法滅の菩提心をおこしたる僧徒あまたあり。一定生死をはなれんとす。わがよろこび、この一事なり。このゆへに、みずからもこれをまもり、眷属をつかはしても、このひとを守護するなり。仏像・経巻・堂舎・僧房はいくたびもやくべし。いくたびもつくるべし。出離生死のこころあるものは、まことにまれなり」

といひて、かきけつやうにうせたまひけり。

かの炎上のとき、菩提心をおこしたりけんひとは、いづれの法おか行じけん。

おぼつかなしといへども、諸教にほむるところおほく弥陀にあり。

さだめて西方をねがふともがら、おほかりけん。

したがひて、東山雲居寺の本願瞻西(ぜんさい)上人、そのとき発心のひとなり。

かれすでに但信念仏の行者なり。

かるがゆへにおほくは西方の行人かとおぼゆ。

されば、かの明神の、発心のものを守護したまひける本壊をもておもふに、いまの世にも出離のこころあらんひとは、時機相応の法、決定往生の行なるがゆへに、弥陀に帰して、もはら名号をとなへば、これすなはち発心のひとなり。

神明の御こころにかなひたてまつらんこと、いづれのつとめかこれにまさらん。

よくよくこころへおもふべし。

 

 

 

 

 

 

※【本文】は、日本思想大系〈19〉中世神道論によりましたが、読みやすさを考慮し、カタカナをひらがなに改めました。

『諸神本懐集』10につづく

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