ネパールでの修行などは、いろいろなところでお話ししてきましたが、なぜ、そこで修行することになったのかという経緯を聞きたいと言われることがあるので書いてみました。
あのとき以来、私は一貫して心の探究に、人生を費やしてきた。なぜならば、あのとき、心の探究こそが、人生を本当の意味で価値あるものに変えてくれるというまぎれもない事実が、現前に、はっきりとあらわれたからである。
二十二歳のある朝、腰からビキッと頭頂と足先に向かう激痛によって目がさめた。少しでも動くと激痛が走る。足先から腰、背中、首、後頭部まで痺れていた。私は、そのまま三日間、ほとんど寝たきりで過ごした。
三日目の朝、両足を引きずりながら、這うようにして掛かり付けの整骨院に行った。
半年ぶりに会った先生が「よく、ここまで自分の身体を壊し続けましたねえ」と呆れたように言った。
その半年ほど前に、私は、バンコクのムエタイバーで試合した。試合といっても正式な試合ではなく、いきなりリングに上げられ、ウエイター兼レフェリーに服を脱がされ、グローブとトランクス履かされ、ゴング鳴らされたのだった。
煩瑣になるので詳細は書かないけれど、最終的に、私は負けた。
これが圧倒的な実力差であったならば話はそこで終わっていたのだが、次やったら絶対に勝てると思ってしまった。そもそも試合をするつもりが無かったのだし、何の準備もしていなかったのである。
試合後、頭打たれ過ぎて吐き気がし、ろれつが回らない状態で相手の腕をつかみ、来年、もう一度闘う約束をさせた。
帰国後、空手道場に退会届を出し、キックのジムに入会した。一年くらい死ぬ気でキックを練習すれば絶対に勝てると思っていた。
そして、練習のやりすぎで持病の椎間板ヘルニアを悪化させてしまった。
腰に激痛が走り、両足が常にしびれてる状態だ。足を上げられなくなったのだけれど、それでも再戦しようという気は失せず、パンチだけでも倒してやると思って、サンドバッグを打ち続けた。
ストレートを打つと腰が痛むので、ひたすらフックを打ち続けた。腰をかばいながら腕だけでフックを打ち続けたので、左右の肋骨がガタガタになり、肋骨を骨折したときのように呼吸のたびに肋骨が痛むようになった。
それでも続けてると、ある朝、起き上がれなくなってしまった。
整骨院の先生が「次やったら、これ、結構な確率で半身不随になりますよ」
そして、格闘技を絶対にやめろと言われた。
絶望した。
当時の私には格闘技しか生き甲斐が無かったからだ。
それから数日の間、どうやって死のうかと考えを巡らせていた。生きる意味がわからなくなってしまったのである。
そんなときに、道場の先輩から電話をいただいた。動けないなら「とりあえず立禅やれ」と言われた。
立禅は、座っておこなう座禅に対して、立った姿勢でおこなう。私が通っていた空手道場では立禅を行なう人が多かった。当時の私は立禅を瞑想だとは思わず、武道的な鍛錬の一つだと思っていた。
私は、その電話から立禅を始めた。
毎日、4、5時間立ち、休みの日は14時間は立っていた。立禅に希望を見出していたのでは決してない。とにかく他にできる鍛錬が無かったし、何もしないでいると、みるみるうちに絶望の虚無感に飲み込まれてしまうからだった。だから毎日限界まで立ち続け、ぶっ倒れるようにして眠った。
そうしないと、眠りにつくまでの間に、絶望に憑り殺されてしまう気がしていた。
そんな生活が八か月くらい続いたとき、劇的な体験が訪れたのである。
目を閉じて立っていた私の身体の中が、いきなり明るく照らし出され、その瞬間、心がすべての空間に解き放たれたのである。そして、これ以上ない快感と幸福感が一切を満たし、私に付きまとっていた絶望感や虚無感は跡形もなく消え去った。
目を開くと、見慣れたはずの何もかもが完璧ですばらしく、世界は喜びであふれていた。目の敵にしていたゴキブリさえもが愛しく、すばらしい存在に思えた。
私に初めて立禅を教えてくれた先輩は、立禅を続けていると、ときとして幻覚が見えたり、幻聴が聞こえたりすることもあるが、
「何が見えても、何が聞こえても、自分が神になったとか、神の声が聞こえるとか言うなよ」と言っていた。その言葉は私に強い印象を与え、それまで一度もその言葉を忘れたことはなかった。
しかし、それでも私はブッダに成ったと思った。
もちろん、ブッダに成ったと思ったのはまちがいだ。ブッダの教えをほとんど知らなかった自分がブッダに成れるはずがない。教えと瞑想の修習は修行の両輪だ。瞑想によって強烈な神秘体験を積み重ねて、ずいぶん高い境地まで来たような気になっていても、片方の車輪だけでは前に進むことはできない。同じところで回転しているだけだ。
しかし、その時は即身成仏したとしか思えないほど強烈な体験だったのである。
その変性意識状態は三日間続いた。
すばらしい三日間だった。つまらない日常世界が、まったく魅力的な輝きと透明感をもって、見るもの、触れるもの、認識されるものすべてが喜びを与えてくれた。当時の私は短気だったが、三日間はまったく腹がたつ気配すらなかった。すべてがこれ以上ない悦楽で満たされていた。寝ている間も光に包まれ、意識が途切れることが無かった。
ところが、三日目の夜、寝ている間に意識が途切れた。朝起きたら、以前の精神状態に戻っていたのである。
私は焦り、何とかあの状態に戻ろうと今まで以上に立禅に打ち込んだ。しかし、あの意識状態に戻ることはできず、その兆しさえもまったくあらわれなかった。
あの三日間、私の脳に、心に何が起こっていたのだろうか?
私がおこなっていた立禅とは何だったのか?
私は本を読み漁った。
そして、自分がやっていた立禅が瞑想の一種であることを知った。
それから、あらゆる瞑想を試した。もう、立禅では二度とあの変性意識状態を体験することができないと思っていたからである。
しかし、それでも、あの三日間の意識状態は帰ってこなかった。
それだけではなく、私は禅病におちいった。精神状態が不安定になり、さらに強烈な絶望感に憑りつかれてしまったのである。しかも、不思議なことには自分の意識に端を発する問題だけでなく、自分とはまったく無関係としか思えない方向から次々に災難が降りかかってくるのである。この状態も八ケ月ほど継続したが段階的に終息していった。
私は、日本で紹介されていた瞑想法では、あの変性意識状態には戻れないと思い、海外で修行する決意をした。
タイでは、僧侶が非常に尊ばれている。タイの僧院では本に記されていないすぐれた瞑想法が実践されているのではないかという、まったく勝手な妄想を描いて、私はタイで出家した。
私に指導してくださった先生は、最初の二週間ほどでタイの瞑想法を一通り説明してくれた。あとは自分でやりなさいと言う。
しかし、このとき教えていただいたすべての瞑想法は、どれも日本で読んだ本に書いてあった瞑想法のバリエーションでしかなかった。二週間ほど一人で座っていたが、あの意識状態が訪れる気配はなかった。
私は還俗してインドに行った。
聖地リシケーシュで、ヒンドゥー教の行者に五か月ほど師事したが、師に疑念を生じてしまい離れることにした。ここでヒンドゥー教の行者に師事したのは、当時の私は瞑想の技法だけを求めていたから、仏教じゃなくてもいいと思っていたからである。
その後、ネパールでチベット仏教ニンマ派の大阿闍梨ケツンサンポ・リンポチェに弟子入りするという幸運を得た。それからの七年間、私はネパールに拠点を置いて修行した。
仏教に確信を得ることができた。
弟子入りさせていただいた翌年から、ネパールでは内戦が勃発し、ネパール滞在は困難を極めた。
けれど、あの七年間は私の人生の宝である。