『坐禅三昧経』23「第四 思覚を治するの法門」11

仏教・瞑想

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『坐禅三昧経』22のつづき

問いて曰く、

「何を以ての故(ゆえ)に故(ことさ)らに喜を作すや」と。

答えて曰く、

「二種の心を治せんと欲す。

或いは散心にして、或いは摂心なり。

是くの如く心を作(な)さば、煩悩を出(い)だすを得ん。

是の故に法を念じて心に喜を作すなり。

復た次に、若し心、悦ばずんば、勧勉して喜ばしめん。

心、摂を作すの時、亦た息の入出するを念ぜよ。

設(も)し心、定まらずんば、強状して定まらしむ。

経中に説けるが如く、心、定まらば、是れ道にして、心、散ずれば、道に非ず。

心、解脱を作すの時、亦た息の入出するを念ぜよ。

若し意、解(げ)せずんば、強状して解せしむ。

譬うるに、羊の蒼耳(そうじ)に入るが如し。

蒼耳、身に著すに、人、為めに漸漸として之れより出だす。

心、諸もろの煩悩結より解脱を作すこと、亦復た是くの如し。

是れ、『心に念止して解脱を作す』と名づく。

無常を観じて亦た息の入出するを念じ、諸法の無常にして生滅し、空にして吾我(ごが)無きを観ぜよ。

生ずる時、諸法、空(むな)しく生じ、滅する時、諸法、空しく滅す。

是の中に男無く、女無く、人無く、作す無く、受くる無し。

是れ、随無常観と名づく。

有為法を観じて散より出づるに、亦た息の入出するの無常なるを念ぜよ。

是れ、出散と名づく。

諸もろの有為法、現世中に出で、過去の因縁に従いて和合せるが故に集まり、因縁の懐するが故に散ず。

是くの如く随観せよ。

是れ、出散観と名づく。

欲結を離るるを観ずるに、亦た息の入出するを念ぜよ。

心、諸もろの結を離るるは、是れ法の第一なり。

是れ、随離欲観と名づく。

尽を観ずるに、亦た息の入出するを念ぜよ。

諸もろの結使の苦、在処に在りて尽き、是の処、安穏なり。

是れ、随尽観と名づく。

棄捨するを観ずるに、亦た息の入出するを念ぜよ。

諸もろの染愛煩悩・身心の五陰・諸もろの有為法、棄捨せらるるは、是れ第一の安穏なり。

是くの如く観ずるは、是れ、随法意止観と名づけ、是れ、十六分と名づく」と。

『坐禅三昧経』24につづく

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