仏教・瞑想 十巻章 真言宗

『即身成仏義』弘法大師・空海

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  即身成仏義

問うて曰く、諸の経論の中に、皆三劫成仏を説く。いま即身成仏の義を建立する、何の憑拠か有るや。
答う、秘密蔵の中に如来、是の如く説き給う。

問う、彼の経に云何が説く。
『金剛頂経』に説かく、
「この三昧を修する者は、現に仏の菩提を証す」(不空訳『金剛頂一字頂輪王瑜伽一切時処念誦成仏儀軌』(略称『一切時処念誦成仏儀軌』)
<この三昧とは、謂く大日尊一字頂輪王の三摩地なり>と
また云く、
「もし衆生有って、この教に遇って、昼夜四時に精進して修すれば、現世に歓喜地を証得し、後の十六生に正覚を成ず」と。(『金剛頂瑜伽修習毘盧遮那三摩地法』(略称『毘盧遮那三摩地法』)
謂く、この教といっぱ、法仏、自内証の三摩地大教王を指す。

歓喜地とは顕教に言う所の初地に非ず。是れ則ち、自家仏乗の初地なり。具に説くこと、「地位品」の中の如し。十六生といっぱ、十六大菩薩生を指す。具には、「地位品」に説くが如し。

また云く、「もし能くこの勝義に依って修すれば現世に無上覚を成ずることを得」と。(不空訳『成就妙法蓮華経瑜伽観智儀軌』(略称『観智軌』)

また云く、「当に知るべし、自身、即ち金剛界と為る。金剛と為りぬれば、堅実にして傾壊無し。我、金剛の身と為る」と。(『毘盧遮那三摩地法』)

『大日経』に云く、「この身を捨てずして、神境通を逮得し、大空位に遊歩して、而も身秘密を成ず」と。(『大日経』「悉地出現品」)

「この生に於いて悉地に入らんと欲わば、その所応に随って之を思念せよ。親りに尊の所に於いて明法を受け、観察し、相応すれば、成就を作す」と。
(『大日経』「供養念誦三昧耶法門真言行学処品」)
この『経』に説く所の悉地とは、持明悉地及び法仏悉地を明かす。大空位とは、法身は大虚に同じて無礙なり。
衆象を含んで常恒なり、故に大空と曰う。諸法の依住する所なるが故に、位と号す。身秘密とは、法仏の三密は、等覚も見難く、十地も何ぞ窺わん。故に身秘密と名づく。

また龍猛菩薩の『菩提心論』に説かく、「真言法の中にのみ即身成仏するが故に、是に三摩地の法を説く。諸教の中に於いてけっして書せず」と。
「是説三摩地」といっぱ、法身自証の三摩地なり。諸教といっぱ、他受用身所説の顕教なり。(龍猛造・不空訳『金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論』(略称『菩提心論』)

また云く、「もし人、仏慧を求めて菩提心に通達すれば父母所生の身に、速やかに大覚の位を証す」と。(『菩提心論』)

是の如く等の教理証文に依って、この義を成立す。

是の如くの経論の字義差別、云何。
頌に曰く、
六大無碍にして常に瑜伽なり
四種曼荼各離れず
三密加持すれば速疾に顕はる
重重帝網なるを即身と名づく
法然に薩般若を具足して
心数・心王、刹塵に過ぎたり
各五智・無際智を具す
円鏡力の故に実覚智なり

釈して曰く、此の二頌八句以って即身成仏の四字を歎す。即ち、是の四字に無辺の義を含ぜり。一切の仏法は、此の一句を出でず。故に、略して両頌を樹てて無辺の徳を顕わす。
頌の文を二つに分かつ。初めの一頌は、即身の二字を歎じ、次の一頌は、成仏の両字を歎す。
初めの中に、また四有り。初めの一句は体、二には相、三には用、四には無礙なり。
後の頌の中に四有り。初めには法仏の成仏を挙げ、次には無数を表わし、三には輪円を顕し、後には所由を出だす。

謂く、六大とは、五大と及び識なり】

『大日経』に謂う所の「我、本不生を覚り、語言の道を出過し、諸過解脱することを得、因縁を遠離せり、空は虚空に等しと知る」、是れその義なり。
かの種字真言に曰く、
アビラウンケンウン
為く、阿字諸法本不生の義とは、即ち是れ、地大なり。
嚩字離言説とは、之を水大と謂う。
清浄無垢塵とは、是れ則ち、囉字火大なり。
因業不可得とは、訶字門風大なり。
等虚空とは、欠字なり。字相、即ち空大なり。
我覚とは、識大なり。

因位には、識と名づけ、果位には、智と謂う。

智、即ち覚なるが故に。
梵音のボダボウジは一字の転なり。ボダをば覚と名づけ、ボウジをば智と曰う。
故に諸経の中に謂う所のサンミャクサンボダイとは、古くは遍知と翻じ、新には等覚と訳す。覚・知の義、相渉るが故に。
この『経』には、識を号して覚とすることは、強きに従えて名を得。因果の別、本末の異なるのみ。この『経』の偈には、五仏の三摩地に約して、是の如く説を作す。

また『金剛頂経』に云く、
「諸法は本より不生なり。自性は言説を離れたり。清浄にして垢染無し、因業なり、虚空に等し。」
此れまた、『大日経』に同じ。諸法とは、謂く諸の心法なり。心王・心数その数無量なるが故に諸と曰う。心識、名異にして義通ぜり。故に天親等は、三界唯心を以て唯識の義を成立す。自余は上の説に同じ。

また『大日経』に云く、
「我、即ち心位に同なり。一切処に自在にして、普く種々の有情、及び非情に遍ぜり。
ア阿字は第一命なり。
バ嚩字は名づけて水とす。
ラ囉字は名づけて火とす。
ウン吽字を名づけて風とす。
キャ佉字は虚空に同じ。」
この経文の初句に、我即同心位というは、所謂心は、則ち識智なり。
後の五句は、即ち是れ五大なり。
中の三句は、六大の自在の用、無礙の徳を表わす。
『般若経』及び『瓔珞経』等にまた六大の義を説けり。

是の如くの六大、能く一切の仏、及び一切衆生・器界等の四種法身・三種世間を造す。故に、大日尊、如来発生の偈を説いて曰く、
能く随類形の  諸法と法相と
諸仏と声聞と  救世の因縁覚と
勤勇の菩薩衆とを生ず  及び人尊もまた然なり
衆生と器世界と  次第に成立す
生住等の諸法  常恒に是の如く生ずと。
この偈は何の義をか顕現する。謂く、六大能く四種法身と曼荼羅と及び三種世間とを生ずることを表わす。謂く、諸法とは心法なり、法相とは色法なり。また次に、諸法というは通名を挙げ、法相とは差別を顕わす。故に、下の句に「諸仏・声聞・縁覚・菩薩・衆生・器世間、次第に成立す」と云う。
また次に、諸法とは法曼荼羅、法相とは三昧耶身なり。諸仏乃至衆生とは、大曼荼羅身なり。器世界とは、所依の土を表わす。この器界とは、三昧耶曼荼羅の総名なり。
また次に、仏・菩薩・二乗とは、智正覚世間を表わす。衆生とは衆生世間なり。器世界とは即ち是れ器世間なり。
また次に、能生とは六大なり。随類形とは所生に法なり。即ち四種法身、三種世間是れなり。

故に、次にまた言く、
「秘密主、曼荼羅の聖尊の分位と、種子と標幟とを造すること有り。汝、当に諦らかに聴くべし。吾、今演説せん。即ち偈を説いて給わく、
真言者円壇を  まず自体に置け
足より臍に至るまで  大金剛輪を成じ
此れより心に至るまで  当に水輪を思惟すべし
水輪の上に火輪あり  火輪の上に風輪あり」と。
謂く、金剛輪とは阿字なり。阿字は即ち地なり。水・火・風は文の如く知んぬべし。円壇とは空なり。真言者とは心大なり。長行の中に謂う所の聖尊とは、大身なり。種子とは法身なり。標幟とは三昧耶身なり。羯磨身とは、三身各各に之を具せり。具に説かば、経文に広く之を説けり。文に臨んで知んぬべし。

また云く、大日尊の言く、
「金剛手、諸の如来の意より生じて、業戯の行舞を作すこと有り。広く品類を演べたり。四界を摂持して心王に安住し、虚空の等同なり。広大の見・非見の果を成就し、一切の声聞、辟支仏、諸の菩薩の位を出生す」と。
この文は、何の義をか顕現するや。謂く、六大能く一切を生ずることを表わす。何を以ってか知ることを得るや。
謂く、心王とは識大なり。摂持四界とは四大なり。等虚空とは空大なり。この六大は能生なり。見・非見とは欲・色界・無色界なり。下は文の如し。即ち是れ所生の法なり。
此の如くの経文は、皆六大を以て能生と為し、四法身・三世間を以て所生と為す。この所生の法は、上、法身に達し、下、六道に及ぶまで、麁細隔てあり、大小差ありと雖も、然れどもなお六大を出でず。故に仏、六大を説いて法界体性と為し給う。

諸の顕教の中には、四大等を以て非情と為す。密教には、則ち此れを説いて如来の三摩耶身と為す。四大等、心大を離れず。心色、異なると雖も、その性即ち同なり。
色即ち心、心即ち色、無障無礙なり。智即ち境、境即ち智、智即ち理、理即ち智、無礙自在なり。
能・所の二生有りと雖も、都て能・所を絶せり、法爾の道理に何の造作か有らん。能・所等の名は、皆是れ密号なり。常途浅略の義を執して、種々の戯論を作すべからず。
是の如くの六大法界体性所成の身は、無障無礙にして、互相に渉入相応し、常住不変にして同じく実際に住せり。
故に頌に、「六大無礙にして常に瑜伽なり」と曰う。無礙とは、渉入自在の義なり。常とは、不動不壊等の義なり。瑜伽とは、翻じて相応と云う。相応渉入は、即ち是れ「即」の義なり。

「四種曼荼各離れず」とは、『大日経』に説かく、「一切如来に三種の秘密身有り、謂く字・印・形なり」と。
字とは法曼荼羅なり。印とは、謂く、種々の標幟、即ち三昧耶曼荼羅なり。形とは相好具足の身、即ち大曼荼羅なり。この三種の身に、各威儀事業を具す、是れを羯磨曼荼羅と名づく。是れ四種曼荼羅なり。

もし『金剛頂経』の説に依らば、四種曼荼羅とは、
一には、大曼荼羅、謂く、一一の仏菩薩の相好の身なり。またその形像を彩画するを大曼荼羅と名づく。また五相を以て本尊の瑜伽を成ずるなり。また大智印と名づく。
二には、三昧耶曼荼羅、即ち所持の標幟の刀剣、輪宝、金剛、蓮華等の類是れなり。もしその像を画するも、また是れなり。また二手を以て和合し、金剛縛を発生して、印を成ずる、是れなり。また三昧耶智印と名づく。
三には法曼荼羅、本尊の種子真言なり。もしその種子の字を各本位に書く、是れなり。また法身の三摩地、及び一切契経の文義等、皆是れなり。また法智印と名づく。
四には羯磨曼荼羅、即ち諸仏菩薩等の種種の威儀事業、もしは鋳、もしは捏等もまた是れなり。また羯磨智印と名づく。

是の如くの四種曼荼・四種智印、その数無量なり。一一の量、虚空に同じ。彼れは此れを離れず、此れは彼れを離れず。猶し空光の無礙にして逆えざるが如し。故に「四種曼荼各離れず」と云う。不離は、即ち是れ即の義なり。

「三密加持して速疾に顕わる」とは、謂く、三密とは、一には身密、二には語密、三には心密なり。法仏の三密は、甚深微細にして等覚・十地も見聞すること能わず、故に密と号う。一一の尊、等しく刹塵の三密を具して互相に加入し、彼此摂持せり。衆生の三密もまた是の如し。故に三密加持と名づく。
もし真言行人有って、この義を観察して、手に印契を作し、口に真言を誦し、心、三摩地に住すれば、三密相応して加持するが故に、早く大悉地を得。

故に、『経』に云く、
「この毘盧遮那仏の三字の密言、共に一字にして無量なり。適に印・密言を以て心を印すれば、鏡智を成じて、速やかに菩提心金剛堅固の体を獲。額を印すれば、当に知るべし、平等性智を成じて、速やかに灌頂地の福聚荘厳の身を獲。密語を以て口を印する時、妙観察智を成じて、即ち能く法輪を転じて、仏の智慧身を得。密言を誦じて頂を印すれば、成所作智を成じて、仏の変化身を証し、能く難調の者を伏す。この印・密言に由って自身を加持すれば、法界体性智毘盧遮那仏の虚空法界身を成ず」と。

また云く、
「法身真如観に入って、一縁一相平等なること、猶し虚空の如し。もし能く専注して無間に修習すれば、現生に則ち初地に入り、頓に一大阿僧祇劫の福智の資糧を集む。衆多の如来に加持せらるるに由るが故に、乃し十地・等覚・妙覚に至って薩般若を具し、自他平等にして一切如来の法身と共に同じく、常に無縁の大悲を以て、無辺の有情を利楽し、大仏事を作す。」と。

また云く、
「もし毘盧遮那仏自受用身所説の内証自覚聖智の法、及び大普賢金剛薩埵の他受用身の智に依らば、則ち現生において曼荼羅阿闍梨に遇逢い、曼荼羅に入ることを得。為く、羯磨を具足し、普賢三摩地を以て金剛薩埵を引入して、その身中に入る。
加持の威徳力に藉るが故に、須臾の頃に於いて当に無量の三摩耶、無量の陀羅尼門を証すべし。不思議の法を以て、能く弟子の倶生我執の種子を変易して、時に応じて身中に一大阿僧祇劫の所集の福徳を集得して、則ち仏家に生在すと為す。
その人、一切如来の心より生じ、仏口より生じ、仏法より生じ、法花より生じて、仏の法財を得。法財とは、謂く三密の菩提心の教法なりと。〈此れは初めて菩提心戒を授かる時、阿闍梨の加持方便に由って得る所の益を明かす。〉
纔かに曼荼羅を見れば、能く須臾の頃に浄信す。歓喜の心を以て瞻都するが故に、即ち阿頼耶識の中に於いて金剛界の種子を種う、と。〈この文は、初めて曼荼羅海会の諸尊を見て得る所の益を明かす。〉
具に灌頂受識の金剛名号を受く。此れより已後、広大甚深不思議の法を受得して、二乗・十地を超越す。
この大金剛薩埵五密瑜伽の法門を、四時に於いて行住坐臥の四威儀の中に、無間に作意し修習すれば、見聞覚知の境界に於いて、人法二空の執、悉く皆平等にして、現生に初地を証得し、漸次に昇進す。
五密を修するに由って、涅槃・生死に於いて染せず著せず、無辺の五趣生死に於いて広く利楽を作し、身を百億に分かち、諸趣の中に遊んで、有情を成就し、金剛薩埵の位を証せしむ。〈此れは儀軌法則に依って修行する時の不思議の法益を明かす。〉」と。
また云く、
「三密の金剛を以て増上縁と為して、能く毘盧遮那三身の果位を証す」と。

此の如くの経等は、皆この速疾力不思議神通の三摩地の法を説く。もし人有って法則を欠かずして昼夜に精進すれば、現身に五神通を獲得す。
漸次に修練すれば、この身を捨てずして進んで仏位に入る。具には経に説くが如し。
この義に依るが故に、「三密加持して速疾に顕わる」と曰う。
加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表わす。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と曰い、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく。行者、もし能くこの理趣を観念すれば、三密相応するが故に、現身に速疾に本有の三身を顕現し証得す。故に速疾顕と名づく。常の即時即日の如く、即身の義もまた是の如し。

「重重帝網なるを即身と名づく」とは、是れ則ち比喩を挙げて、以て諸尊の刹塵の三密、円融無礙なることを明かす。帝網とは因陀羅珠網なり。謂く、身とは我身・仏身・衆生身、是れを身と名づく。また四種も身有り。言く、自性・受用・変化・等流、是れを名づけて身と曰う。また三種有り、字・印・形、是れなり。是の如く等の身は、縦横重重にして、鏡中の影像と灯光の渉入との如し。彼の身、即ち是れ此の身、此の身、即ち彼の身、仏身、即ち是れ衆生身、衆生身、即ち是れ仏身なり。不同にして同なり、不異にして異なり。

故に、三等無礙の真言に曰く、
アサンメイ チリサンメイ サンマエイ ソワカ
初めの句義をば無等と云い、次をば三等と云い、後の句をば三平等と云う。仏・法・僧、是れ三なり。身・語・意、また三なり。心・仏及び衆生、三なり。是の如くの三法は、平等平等にして一なり。一にして無量なり。無量にして一なり。而も終に雑乱せず。故に「重重帝網なるを即身と名づく」と曰う。

「法然に薩般若を具足す」とは、『大日経』に云く、「我は一切の本初なり、号して世所依と名づく。説法等、比無く、本寂にして上有ること無し」と。
謂く、我とは大日尊の自称なり。一切とは無数を挙ぐ。本初とは、本来法然に是の如くの、大自在の、一切の法を証得するの本祖なり。如来の法身と衆生の本性とは、同じくこの本来寂静の理を得たり。然れども衆生は、覚せず知せず。故に仏、この理趣を説いて、衆生を覚悟せしめたもう。
また云く、「諸の因果を楽欲する者、かの愚夫の能く真言と真言の相とを知るに非ず。何を以ての故に。因は作者に非ずと説けば、かの果も則ち不生なり。この因、因すら尚し空なり。云何が果有らんや。当に知るべし。真言の果は、悉く因果を離れたり」と。
上の文に引く所の、「我、本不生を覚り、乃至因縁を遠離せり」の偈、及び「諸法本より不生なり。乃至因業なり、虚空に等し」、是の如く等の偈は、皆法然具足の義を明かす。

また『金剛頂』に云く、
「自性所成の眷属、金剛手等の十六大菩薩、乃至各各に五億倶胝の微細法身の金剛を流出す」と。
是の如く等の文は、また是れこの義なり。

法然とは、諸法自然に、是の如くなることを顕わす。具足とは成就の義、無欠少の義なり。薩般若とは梵語なり、古く薩云と云うは訛略なり。具には薩羅婆枳嬢曩と云う。翻じて一切智智と云う。一切智智とは、智とは決断簡択の義なり。一切の仏、各五智・三十七智、乃至刹塵の智を具せり。

次の両句は、即ちこの義を表わす。もし決断の徳を明かすには、則ち智を以て名を得。集起を顕わすには、則ち心を以て称とす。軌持を顕わすには、則ち法門に称を得。一一の名号、皆人を離れず。是の如くの人・数、刹塵に過ぎたり。故に、一切智智と名づく。顕家の一智を以て一切に対して、この号を得るには同ぜず。

心王とは法界体性智等なり。心数とは多一識なり。「各五智を具す」とは、一一の心王・心数に各各に之有ることを明かす。無際智とは高広無数の義なり。

「円鏡力の故に、実覚智なり」とは、此れ即ち所由を出だす。一切の諸仏、何に因ってか覚智の名を得たもうとならば、謂く、一切の色像、悉く高台の明鏡の中に現ずるが如く、如来の心鏡もまた是の如し。円明の心鏡、高く法界の頂に懸って寂にして、一切を照らして不倒不謬なり。是の如くの円鏡、何れの仏にか有らざらん。故に「円鏡力の故に、実覚智なり」と曰う。

即身成仏義

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