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『諸神本懐集』6のつづき
実社の邪神をあかして、承事のおもひをやむべきむねをすすむ
第二に、実社の邪神をあかして、承事(しょうじ)のおもひをやむべきむねをすすむといふは、生霊・死霊等の神なり。
これは如来の垂迹にもあらず。
もしは人類(にんるい)にてもあれ、もしは畜類(ちくるい)にてもあれ、たたりをなし、なやますことあれば、これをなだめんがために神とあがめたるたびひあり。
文集のなかに、ひとつのためしあり。唐の江南(かうなむ)といふところに、黒潭(こくたん)といふふちあり。
みづのそこに龍ありといひて、ひと、やしろをたててあがむ。
これによりて、くにのうちにやまひあれば、このたたりといひ、こほりのあひだにわろきことあれば、そのとがといひて、としごとにこれをまつりけり。
まつるときにはいの子をころしてそなへ、さけをしたみてたむく。そこにかみのすむらんおばしらず。
ひとの目にみゆるは、はやしのねずみ、やまのきつねのみきたりて、さけをのみ、いのこをくらふ。
されば、きつねなにのさひはひかある。
いのこなにのつみかある。
としどしに、いのこをころして、きつねにかふこと、はなはだいはれなし。龍ありといひてまつることしかるべからずと、白楽天はおほきにそしれり。しかれば、仏法よりこれをいましむるのみにあらず。
世間にも、かくのごときの邪神をたうとむは、正義にあらずときこへたり。世にあがむるかみのなかに、このたぐひまたおほし。
たとひひとにたたりをなすことなけれども、わがおや、おほぢ等の先祖おばみなかみといはひて、そのはかをやしろとさだむること、またこれあり。これらのたぐひは、みな実社の神なり。
もとよりまよひの凡夫なれば、内心に貪欲ふかきゆへに、少分のものおもたむけねばたたりをなす。
これを信ずれば、ともに生死にめぐり、これに帰すれば、未来永劫まで悪道にしづむ。
これにつかへて、なにの用かあらん。
されば優婆夷経(うばいきょう)には、「一瞻一礼諸神祇、正受虵身五百度、現世福報更不来、後生必堕三悪道といへり。
この文(もん)のこころは、もろもろの神をひとたびもみ、ひとたびも礼すれば、まさしく虵身(じゃしん)をうくること五百度、現世の福報はさらにきたらず、後生にはかならず三悪道におつとなり。
しかのみならず、善導和尚の法事讃に、くわしくこれを判ぜられたり。「妄想求恩謂有福、災障禍横転弥多、連年臥病於床枕、聾盲脚折手攣撅、承事神明得此法、如何不捨念弥陀」といへり。
こころは、凡夫のまよへるこころをもて、神恩をもとめて福あらんとおもへば、さひはひはきたらずして、わざわひはうたたおほし。
としをつらねて、やまひのゆかにふし、みみしい、めしい、こしおれ、てくじく。
神明にうけつかふるもの、この報をうく。
いかんががすてて、弥陀を念じたてまつらざらんとなり。
まことに現世の福報はきたらずして、かへりて災難をあたえん。
実社のかみにつかえて、一分もその要あるべからず。ひとへに弥陀一仏に帰したてまつりて、浄土をねがはば、もろもろの神明は昼夜につきそひてまもりたまふべきがゆへに、もろもろの災禍ものぞろり、一々のねがひもみつべきなり。
権社のかみはよろこびて擁護したまふべし。
本地の悲願にかなふがゆへなり。実社のかみはおそれてなやまさず。もろもろの悪鬼神をして、たよりをえしめざるがゆへなり。
諸神本懐集 本
浄土真宗の教えは、どんな現象もすべて阿弥陀仏のおかげとして受け入れ、感謝、帰依の心に結び付けていく道ですが、反面、神道や他宗に対しては排他的でもあります。
このような浄土真宗の伝統の中では懐の深い信仰を持つ存覚ですが、ここでは、もし、実社の神に帰依したならば「未来永劫まで悪道に沈む」とまで記してます。
次は、第三です。
※【本文】は、日本思想大系〈19〉中世神道論によりましたが、読みやすさを考慮し、カタカナをひらがなに改めました。
『諸神本懐集』8につづく