『諸神本懐集』11 釈迦如来・薬師如来・弥勒菩薩・観音菩薩・勢至菩薩

神道・神仏習合

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『諸神本懐集』10のつづき

そもそも、わが朝の神明の本地をたづぬれば、おほくは釈迦・弥陀・薬師・弥勒・観音・勢至・普賢・文殊・地蔵・龍樹等なり。
この諸仏菩薩、ことに弥陀を念ぜよとおしへ、ひとへに西方の往生をすすめたまふ。
垂迹の本意、またひとしかるべければ、いづれの神明かこれをそむきたまはんや。

 

釈迦如来

まづ釈迦如来は、娑婆の教主、衆生の慈父なり。惣じては一代の諸教に、もはら弥陀を念じて西方にゆけとすすめ、別して三部の妙典に、ただ名号をとなへて往生をとげよとおしへたまへり。
大経には、弥陀の利生をもて真実の利ととき、観経には、名号の一門をえらびて阿難に付属し、小経には、凡地の本行なるがゆへに、一切世間のためにこの法をとくとみへたり。
弥陀の教門をもて、釈尊の本懷とす。釈尊に帰せんとおもはば、弥陀をたのみたてまつるべきなり。阿弥陀如来は、帰するところの教主なれば、なかなかまふすにおよばず。弥陀の垂迹にてましまさん神明、本地を信ぜんに、その御こころにかなはんこと、勿論なるべし。

 

薬師如来

薬師如来は、東方浄瑠璃世界の教主なり。西方極楽に生ぜんとおもはんもの、そのこころいまださだまらざらんに、薬師をたのみたてまつらば、いのちおはらんとき、八菩薩をつかはし、そのみちをしめして、西方の浄土におくらんとちかひたまへり。されば、まことの信心をえて、すぐに極楽に生れんひとは、八菩薩のみちしるべにもおよぶまじければ、薬師如来も、さだめてこころやすくおぼしめすべし。薬師のちかひをきかんにつけても、いよいよ弥陀を念ずべきなり。

 

弥勒菩薩

弥勒は、当来の導師、補処の菩薩なり。胎生化生のありさまを、釈尊にとひたてまつりては、念仏諸行の得失をさだめ、仏智無上の一念をききては、遐代流通の付属をうく、釈迦一代の教に、もはら弥陀をほめたまへり。弥勒成道のとき、また西方をすすめたまふべし。諸仏道同の化儀、さらにかはるべからざるがゆへなり。

 

観音菩薩・勢至菩薩

観音・勢至は、弥陀如来悲智の二門なり。弥陀の慈悲を観音となづく。
弥陀の智慧を勢至と号す。
されば、観経には、この二菩薩は阿弥陀仏をたすけて、あまねく一切を化すといへり。
また念仏の行者には、観音・勢至つねにその勝友となりたまふともとけり。
弥陀を念ぜんひと、もとも二菩薩の本誓にかなふべきなり。
普賢菩薩は、これまた弥陀をほめたまへり。
ねがはくは、われいのちおはらんとき、もろもろのつみをのぞき、弥陀如来をみたてまつりて、安楽国に往生せんとちかひたまへり。等覚無垢の大士、なをみづからのために、安楽の往生をもとめし。もともかの本意にかなふべし。
これによりて、大行禅師に対しては、まさしく弥陀の名号をすすめたまへり。
なんぞ、かのおしへを信ぜざらんや。

“大行禅師”は唐代の念仏行者で、『往生西方浄土瑞応伝』巻十五によれば、初めは法華三昧を修していたが、普賢菩薩からの教示を得て、念仏を行ずるようなったと伝えられています。

 

 

 

 

 

 

 

※【本文】は、日本思想大系〈19〉中世神道論によりましたが、読みやすさを考慮し、カタカナをひらがなに改めました。

『諸神本懐集』12につづく

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